41 報いと、
ボイエスは頑強な体格に相応しい大きな声を出した。
今日嫌という程味わっていた無力感を消し去ってくれたのは誰か、声をあげるべきだと思った。どうやら既に状況は「終わった」ことになろうとしている。矮小化した「過去」という二文字に収まりつつあった。
目の前で起こったことを消化できないでいる。あるいはこれがボイエスの知り得ない取り決めによるものなのかも知れない。だが、常々彼らが言葉にする神の慈悲があるならば、それは彼女に降り注ぐべきものだ。ましてや水などではなく―――
司祭は、なぜ彼女を虐げるのだ。彼女はどうして、されるがままにしている。胸にいやな思いが広がる。駆け出したボイエスは女のそばに膝をつくと、司祭を見上げた。
「司祭さま……ご事情はあるのだとは思います、けれどこの方はうちの者を救ってくれた恩人です。恩義に報いぬままお帰りいただくことは、人としてとるべき道に背くものと考えます」
慣れない語句を並べ、まごつく口を精一杯動かした。ある程度の役職を持つボイエスだが、教会の司祭に上申したことなどない。
泥まみれの女にかぶせた白い布は、被衣のように髪や額から体全体を覆う。少しでも水を吸えばいいと、抱く手を上下させようとしたが思うように動かなかった。緊張していた。恐れてもいた。それでも被衣の隙間からボイエスを見つめる眼が震えているような気がして、ただどうしようもない想いを抱えた。
司祭は首を横に振る。
「貴方方が今日感じた気持ちは私には到底想像もつかないものです。激動の日であったことでしょう。このような混乱に龍下は大変御心を痛めておいでです。貴方も自らの口で説明をなさりたいのではないですか?」
「…異存はありません」
ボイエスの顔に長細い影が落ちた。
女は立ち上がり、ボイエスに向き直っていた。少し高い場所に顔があり、教会で祝福をもらう儀式に似ていた。女は被衣の裾をボイエスの頬に寄せると、雨粒を丁寧に拭い取った。ボイエスは彼女の笑顔に中に諦観がつまっていることに気がついた。顔をしかめたのを見て、女は笑った。
「ボイエスさん…寒い中長時間いろいろとありがとうございました。鉱山の復旧や損害の補償などの色々な問題については龍下にお話をさせていただこうと思っています。龍下はきっと関心を示され、様々な援助をおこなってくださるでしょう」
笑顔を張り付けた女の顔を雨が容赦なく打ちつける。口元は固く結ばれていた。ボイエスは思った。もうやめなくてはならない。無用な問答で彼女を押し留めてはならない。彼女が何か穏便にことを済ませようとしていることを無視できなかった。
畜生。ボイエスは立ち上がると、女の頬についた土を親指でなぞって落とそうとした。泥の筋がひっかき傷のように広がっただけだが、周囲にわざと笑顔を見せる女の表情を崩す事には成功した。
「今日俺たちを救ってくれたのはシュナフスの理術師でも商会でもアクエレイルでもねえ。あんたの事を俺達は忘れねぇ」
女は上半身を前に倒すと、被衣の裾を掴み、口元に寄せる。
「この被衣………お借りしてもいいですか」
一拍遅れて、肺にたまった空気を吐く。ボイエスは歯を見せながら、自分でも驚くほど柔和な笑顔を浮かべた。
「そんな上等なもん数がねえ。返しに来てくれるなら」
司祭が小さな声で毒づいたような気がした。それでもボイエスは彼女が確かに頷き、その顔から憐憫を拭いさるのを見守った。
◆
リーリートは地べたに落ちた。
落ちてきた時掴まえてくれる者もおらず、自分の力で起き上がることもできなかった。
風で運ばれた燃え滓のように草の上に倒れる。もう疲れ切ってどうしようもなかった。大雨が最後に残った熱を奪っていく。リーリートの瞼は痙攣し、喉元をこみ上げてきた何かを吐くと、涎と共に黒い粘液が枯葉を汚した。血だ。月明かりの下で、体はとうに限界を迎えていた。
ほんの少し頬を持ちあげ、体中に枯葉を張り付けたまま、茂みの向こうに透ける光を目指して地を這った。小さな丘の上からは、下に広がる鉱山の灯りが見えていた。その先に見える小さな光の粒は鉱山町のものだろう。牛車はもう出発しただろうか。レヴさんとレイクさんの二人は病院についた頃だろうか。ボイエスさん、明日から彼を襲うだろう苦労と思うと遣る瀬無い。ボイルさんから借りた上着も駄目にしてしまった。エドさんも、トトさんにも苦労を掛けた。コーンウェルさんにも助けてもらった。せめて今夜は温かい部屋の中で静かに眠れるように祈った。
(被衣は………)
手だけなんとか動かし、肩に触れ、指を少しずつ動かした。雨を吸った被衣は背中にかろうじてかかっていた。「返しに来てくれるなら」瞼の裏にやさしい声が蘇る。
リーリートは最後の力を振り絞って、顔の前に握りこぶしを近づける。ゆっくりと指を開くと、艶のある表面が月明かりを浴びて微かに光った。黒い水晶―――坑道で見つけた、今回の原因の一端。
黒い水晶をもう一度握りしめると、その石の中に自分の理力を感じた。随分と持っていかれたものだと、腹を立てるわけでもなく、静かに息を吐く。長距離の転移はできそうにないが、アクエレイルに戻るまで何度の転移が必要だろうと考えたが、計算する気になれなかった。
「ふーーっ」
湿った呼吸、そばで枝が折れる音がした。
リーリートは振り向けない。けれど頭の後ろ、暗闇の中に男が立っていると振り返らずもわかったのは生存本能のなせるわざだったのかも知れない。男は木片を振り上げ、地べたに横たわるリーリートの背に正確に打ちおろした。
打ちつけられる度に男の腰帯にぶら下げている灯りが揺れ、リーリートの目の奥とともに明滅した。男は笑い声と嘲りを混ぜたような声を出すと、リーリートの背中に圧し掛かる。「おんな、みつけた、しろい おんな」と聞こえた気がした。口の端に泡をつけながら、枯葉と土をつかんだ男は、それらをリーリートの口に押し込んだ。
リーリートは自分が鳥の巣になるのだろうと思った。枝葉の中に押し込まれ、唾で固められるのだと。頭の後ろで何かが擦れる音がして、背骨が大きく軋んだ。肺が潰され、土を飲み込んだ喉が詰まり、体が跳ね上がった。
土を吐いたリーリートの目の前に、小さな赤い縞模様の蜘蛛がいた。残土の上を素早く移動するそれをぎょろりと見つめていると、男の毛深い手がその視線を遮るように土ごと蜘蛛を押し潰した。
極めて不潔な状態で放置された傷跡が目に入る。手首にあるのが刻印だとわかったのは、馴染みの略称が刻まれていたからだ。
(――――アメタストス施療院、……放し飼いの豚め)
体を押さえ付けられながら、司祭の顔を思い浮かべ、すぐに消した。
女の身体に跨った男は、円柱のような図体を押し付けていた。それは舟の中央に置かれた帆柱のようだった。両腕は帆桁であり、木片を振り上げるために半回転した。
しかし振り下ろされる寸前、少し離れた場所に何かがゴトリと落下した。木の根にぶつかり跳ねたそれは、帆柱から分離した柱頭だった。硬直した男は木片を振り上げた状態で停止し、ゆっくりと傾ぐ。蓋を失った帆柱からは血が噴き出し、リーリートは最早瞼を開けていることができず、熱い血の雨を受け止めていた。
黒い外套をまとった男が、帆柱を蹴り倒し、女を抱き起こした。口から腐植土と水があわさったものを掻き出し、枯葉や髪を避けた。
リーリートは瞼を閉じたまま、男を抱き寄せた。それが誰であるかは容易にわかっていた。腕の中で男は震えている。そんな想いをしなくてもいいと言いたかった。
「か、えろ………シャ………る」
まもなく二人の姿は消え、そこには頭部を切断された豚だけが残った。




