406 肉料理:■■■■・■■■■■■(19)
絞めつけが緩んだ。彼の耳に届いていると確信し、リリィは息をつく折だけ一瞬目を伏せた。言いだした以上、生きるのを拒む青年を追い詰めねばならなかった。大切にするだけが守ることにあらず、精神だけの世界では心臓を爪で掻くようなこともしなければならない。
「レーヴェ……私に何をしようとも気に病むことはないわ。傷つけても殺しても好きにしていい。ここで何をしようと外の私は変わらず貴方に理力を注いでいる。でも貴方は違うわ、レーヴェ。外の貴方は今、顔を覆って泣き喚いている赤ん坊よ。体に現れた痛みは、赤子の時に経験する成長のひとつに過ぎない。大なり小なり、赤ん坊は痛みに涙して、自分の種族を受け入れるの。でも貴方は、自らの姿を受け入れられずに死をたぐり寄せている。その強烈な痛みは、拒絶から引き起こされる過剰反応なのよ」
青年の口がかすかに開き、痙攣するのを見た。
何を言ってもリリィに種族特徴はなく、当事者にはなれない。苦痛を感じて戸惑う彼に更なる苦痛を突きつけているだけだ。
青年と対峙しながらリリィは、自分の口調がかつての伴侶に似ていることを自覚した。批判も愛を与える事も精神に影響を与えるという点では同じ事だよ――かつて彼はそう言った。
言葉で他者を痛めつけることを厭わなかった人だった。一言も二言も多く、人が隠そうとする弱さを好んで貫くような悪癖があった。
(そう、私にとっては悪癖だった……)
批判の対象は常日頃愛していると言ってやまないリリィでさえも含まれた。
彼に何度諫められ、幼稚で、一方的な価値観を正してもらったことだろう。物の考え方も感情の動かし方も育った環境も、何もかも違う二人だった。当然固辞したい一線はあり、平然と踏み越えてくる彼に怒りを示したこともよくあった。
下手に自分を持ちすぎるあまり、私は彼の言葉に苛立ち、始めから否定を告げるようになった。幼稚な癇癪をしてみせる私に彼は極端に穏やかだった。間違いばかりの私さえ愛おしいという。彼の精神は誰よりも円熟していた。どうしてそこまで私を愛し、譲歩してくれたのか、彼が期待していたものは何であったのかは今もわからない。だけど今言えるのは、別の道を歩んでいても彼の存在は確かに胸の中に息づいているということだけだ。
(今更思い出しても……わからない、あんな事をされたあとで――貴方を……)
かぶりを振って、微笑を唇に乗せると頭の中から雑念をはらった。今すべきことは、目の前の青年の幼気な心を正論で踏み散らすことだ。
"批判も愛を与える事も精神に影響を与えるという点では同じ事だよ、私のリリィ"――波打ち際から声が聴こえた気がした。雨で煙る向こうに…
「真実を受け入れないと決めたのなら、貴方の決断を尊重するわ。だって目を覚ませば、もっとつらいことが待っている……そうね、だから貴方はこの場所を選んだのね。ここに"戻って"来たかったのね……」
悲しみに溺れた声にレーヴェの心に何故か強烈な悔しさが浮かんだ。
「……ここに居たって救いはないわ。ないのよ、レーヴェ」
――つらいことが待っていると分かっていて、何故戻れというのだろう。
またこうも考えた。この人は何故こんなにも熱心に声を掛けてくれるのだろうか。
彼女は寄り添いながら結局失望も絶望もしていない。だって彼女は綺麗なままだ。白い腕も腋も、背中も肩も、すらりと伸びる細い脚も、どこもかしこも究極的な輪郭で完結している。羽も尾っぽも鱗も、牙も角も爪も剛毛備わっていない。
彼女にわかるだろうか。自分の顔がめちゃくちゃに上書きされて、新しい目鼻を描かれた気分でいることを。誰がそれをわかってくれるというのだろう。そうだ、彼女のいう通り、受け入れるか否かは自分で決めるしかない。彼女は正しいことを言っている。二人だけの世界で、ただ一人向き合ってくれているこの人は、この瞬間誰よりレーヴェという生まれたばかりの男のことを考えてくれている。
「変わってしまってこわいのね。でも、頭の片隅で"別の事"に執念していること、……とっくに気づいているんでしょう? 本能に口止めされているなら、私が言ってあげるわ。それがきっと私がここにきた意味なんだと思うから……」
(いやだ―――聴きたくない!)
本当に嘆願するなら声を出せばいいのに、声は枯れている。言って欲しい気持ちと、すべてが覆ってしまう怖ろしさに泣き喚く自分が見えた。あぁ―――確かに、廊下にふせる男にまだ少女の貴方が寄り添ってくれている。
(あぁ……)
頬に涙が伝う。同時に腹に力が入り、尾に命令が下った。腕を縛っていた尾は彼女の骨を砕こうとさらにきつく絡みつく。額から汗を流し、彼女は呻くよりも真実を吐くことを選んだ。
「貴方は――ゾ■■、ゾア■、……ゾアルなのよ」




