405 肉料理:■■■■・■■■■■■(18)
姿勢を戻し、息を吸って吐く。それから腕をあげて、腋の下から背中を覗き込んだ。岩のこびりついた肌が目に入るが、おびただしい血をかぶる下には確固とした肉体がある。腹も、足も健在だ。破けた衣服がまだ用を成そうと腰に張り付いている。それらを引き剥がし、確認を拒む心を押しのけてつぎはぎの体に触れていく。
腰にへばりつく岩は皮膚の下に深く食い込んでいる。指先はすぐに新しい血に染まり、いちいち吐き気を押さえなければならなかった。ものを考えるという時間さえうまく取れずに何度も嘔吐く。視覚に飛び込んでくる何もかもが、はっきりと自分の存在をおびやかしている。
このまま全身が石に覆われてしまうのだろうか。頭の中はしんとして、何を考えても危険を連れてくる。もっと奥へ手を伸ばす。腰に張り付く"岩"の真ん中に鋭い小山が並んでいる。山脈にぶつかった指は、おそるおそるざらついた輪郭を確かめ、なぞり、それが二列存在すると気づいた。びっしりと岩肌を埋めているわけではない。背骨にそって縦に並び、上まで続いている。鼓動が一度止まって大きく跳ねた。首のあたりを確認することは憚られた。真っ白い頭の中に何も入る余地がない。嗚咽を飲み込み、下側を辿っていく。骨の山脈は湿った肌に触れた。鱗でびっしりと覆われた生温かい肌に。
振り返る。見てはならないと本能が告げていた。
蛇の尻尾――それが自分の腰を根元にうねっていた。ふたまたに分かれた先端がレーヴェの視線に答えて、揺れていた。
その瞬間未知の靄を失った世界に絶叫が迸った。黒い"大蛇"は叫びに呼応してのたうち回り、先端がレーヴェの腕に絡みつこうと迫る。払いのけて、その衝撃が自分の感覚として背筋をのぼってくるのを感じて、またつんざく声をあげた。海辺は血反吐まじりの声で埋まった。
「レーヴェ! レーヴェ…!」
青年によって守り抱かれていたリリィは、自分の体に爪を立て始めたレーヴェの腕を掴み、自傷を阻もうと声をはりあげた。
「拒絶してはだめ! 苦しいのはわかっているわ。混乱して、絶望して…でも」
青年といえど身丈が少ししか違わぬ男を、リリィは必死に抱きしめた。けれど無縁だったはずの現実の痛みを感じ始めてしまった青年はもがき苦しみ、反応を示さない。
「自分のものだって、自分の姿だって……受け入れるの、しっかりっ…!」
尻尾は跳ねまわった。倒れた幹を殴打し、地面を擦って葉群れを混ぜ返した。虫が方々へ飛び出し、砂埃が舞う。依然としてレーヴェの頭の中には大蛇が巣食っていた。これを早く遠ざけなければならないとのたうち回るのはその為だ。背中に巻きついて離れない大蛇を木に擦りつけ、殴打し、腰から岩を剥がそうと境目に指を刺しこむ。
彼女だけは守らなくては―――そう思うのに、彼女は必死に抱きつき、静止を強制してくるのは何故なのかレーヴェにはわからない。何か叫んで、そして彼女と触れる場所から光が生まれていた。触れる肌が熱い。
一瞬視線が合うと、こわばった顔がほぐれて、頬に汗が伝う。咄嗟に口づけを願う気持ちが浅ましく浮かんだ。やさしさに触れて全て手放してしまいたい気持ちが恐怖と痛みを凌駕する。
だが大蛇は躍動し、レーヴェの肉を裂き、骨を動かした。レーヴェは認めたくなかったのだ。自分の体が尻尾という大きな器官を支える為に作り替えられたことを。認めることができなかった。襲い掛かる痛みに抗う術もなく、段々と生気を引き抜かれていく。
「お願い、レーヴェ…!」
リリィが捧げる膨大な理力は青年の中に吸いこまれていく。だが、心の底から己を拒絶する青年から流出していく量と変わらない。
のどをさらしながら仰け反る青年はうずくまると、頭部を木に叩きつけはじめる。リリィは咄嗟に自分の手を彼の額に挿しいれた。手の甲は幹に容赦なく叩きつけられ、指の付け根の四つの骨が激痛に沈む。歯を食いしばりながら、何度も打ちつけられても耐える。自分を穢すことに熱中している青年の痛みを分かち合いたかった。彼は増々言葉にならない音を叫んだ。
「あ、あ゛ッ、ああッ!」
「……貴方が!…ッ、うけ、いれれば、っぁ……痛みは、ぜんぶ……なくなるの……!」
「あぁああッ!」
青年の理性は終わりかけていた。
細い手首を掴んでリリィを強引に引き剥がすと、体をいとも容易く釣り上げた。手首を掴むのは彼の手だが、補うように尻尾も腕を絡めとり、リリィの体は簡単に持ち上がった。爪先が砂礫を離れ、一直線に青年の目を視たリリィはがらんとした闇と対面する。彼は自分の境界を見失い、無感動な目で主導権を手放していた。ずり落ちた袖からあらわれた白い腕と腋に、女性には優しくありたいと願う青年の心は傷つく。尻尾に容赦なくしめあげられながらリリィは冷静に言い放った。
「その体を受け入れなければ、貴方は死ぬわ」




