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リリィ 思いつくままに書きとめたささやかな覚書と一切の崩壊。無力な愛、ひとつの不幸、ただ愛を愛とだけ欲したある価値の概念  作者: 夜行(やこう)


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404/422

404 肉料理:■■■■・■■■■■■(17)

レーヴェは驚いて彼女の目を食い入るように見つめた。彼女の目は一切揺れていない。レーヴェの動揺を推し測り、備えているように思えた。


唇は言葉を紡ぐ場所だが、今ほど闊達に情感を伝えた時はなかった。涙に揺れる吐息をこぼした彼女は、レーヴェの額にその震えを与えた。近づいてくる唇を避けることはできたが、そうしなかった。眠る前に瞼に口づけをする母の顔が重なる。灯の落とされた暗い天井を背負い、闇の中で腰を折る母はどんな顔をしていただろう。こんな風に泣くこともあったのだろうか。居なくなって、つらい思いをさせただろうか……


得も言われぬ情感が背筋を駆けのぼった。口づけはほんの一瞬のことだったが、レーヴェは生唾を飲み込み、腰を微動させた。

生まれて初めて与えられた感覚に意識は上に駆けのぼった。意思の定まらぬ甘いひと時は、思い出のどこを探ってもありはしない。だがレーヴェの口が歓喜を告げる事はなかった。何も語ろうとしない女性が何かを読み取ろうと左右の瞳をまだ見比べている。祈りのような儚さで何を求めているというのか。


ぞくりと、背中に不思議な変化が走った。体を誰かに撫でられている。咄嗟に目線を下げて、彼女の手を見た。両方ともレーヴェの後ろにまわっている。彼女だろうか。雨の音が激しくなる。

何かおかしい―――背後に感じた事のないものを認識し始めるとレーヴェの口に亀裂が入った。歪な笑みは嫌悪と不快によって引き出された乾いた笑みだ。他者に体を撫でられる時、意識の中に反射しているのは自分が認識している体の形だ。今でいえば背中から尻にかけての窪みや曲線、皮膚を押し上げる骨の位置を、撫でる彼女の手によって部分的に反芻できるはずだ。暗やみの中で限られた場所に燈火を寄せてみているように、そのものだけを感じ取れるはず。


しかし、レーヴェが思い描く滑らかな肌の感触はどこにもない。彼女の指がひとつの節を往復する間に感じるのは、ざらついて、引っかかり、鋭利で、荒々しい感覚だけなのだ。これが自分の、人の肌なのか―――めぐった疑問に俄かに引きこもってしまいたい気持ちが奥歯を震わせた。今すぐに目が覚めて、あぁ夢だったのかともう一度寝具に身を預けたかった。がちがちと歯が鳴って、自分が怖れていることに気づく。おそらく彼女は知っているのだ。だからこうまでも憐憫に満ちた目で見つめている。知りながら"表立って"指摘することを避けているのは…


「い゛ッ!?」


激痛が体を貫く。同時に大地が大きく揺れ、背中にあった幹が葉を攪拌する。海辺に生える風よけの大木が大きなものに殴打されてガシガシ、ミシミシと悲鳴をあげ始めた。落下した丸い実が足元に転がり、小さく折り畳まれた白い足に吸いこまれていく。接触を思い描いた寸前、木を殴打していた"もの"が実を遠くへ弾き飛ばした。地を這うさまは獣のように素早い。黒い筒状のそれは素早く背後に戻った。驚いて目を見開くレーヴェにはそれが黒い蛇に見えた。


ミシミシとまだ大木は侵されている。このままでは彼女に危険が及んでしまう――そう感じたレーヴェは空気を押し退けて先んじて彼女に覆い被さった。

細い喉元から短い苦痛の音が飛び出す。隙間を作って窺うと、歪んだ顔を一瞬で直して無理やり作った微笑みが返ってきた。頬に浅い金色の砂が影を投じている。櫛目のとおった髪は地面に散らばり、衣は乱れ、彼女に育まれていた美は穢されていた。急にレーヴェの中で悔恨がわきあがった。動悸がして息が詰まり、自責の念が奥底からわきあがる。だが構わず膝を進めて彼女の足を自分の下に引き寄せた。一つとして傷をつけてはならない、そう強く思った。


「空が割れていくわ…」


身勝手な情感に翻弄されている間に、彼女は何者も怖れぬただ静かな目で空を見つめていた。眉は凛々しく、空が裂けて現れた太陽を瞳の中に映しとっている。木々は真横に倒れ、二人の為に空を明け渡した。唖然とするレーヴェは地に伏した木々を見て混乱してやまない。心を映した世界が自分に向けて無性に叫んでいることを、信じられずにいる。

陽光に真上から照らされ、灼熱の光に強い影が生まれた。背後に何かが屹立している。黒い大蛇であろうと見当をつける。太い影がふたまたに揺らめている。双頭の蛇だ―――塊の息を吐きながら、ゆっくりと、振り返った……そこにあったのは黒い蛇…、ではない。ふたまたに分かれた双頭の尻尾だった。

それはレーヴェが右にと思えば右に、左にと思えば左に動いた。


「はっ、はっ……っは、は…」


呼吸がままならない。唾液が端から毀れて、袖で必死に拭う。恐る恐る手を後ろに回すと、腰と尻の間に岩がこびりついているような感触があった。こわくて一旦手を引っ込めるも、唇を噛みながらまた繰り返した。肌と岩の切れ目はざらついて、腰の裏全体が硬く盛り上がっていた。






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