403 肉料理:■■■■・■■■■■■(16)
逡巡する指先が櫛の目に梳かれたばかりの髪に触れた。それらは何故か冷たく、気づけば彼女の衣がしっとりと水気を帯びて濡れている。浜辺には雨が降っていた。けれど木陰はまだ湿っていなかった。どんどん水気を含んでいく衣や彼女の体に、レーヴェは戸惑い、生唾を飲み込む。緊張しながら彼女の背中を軽く叩いた。誰かが泣いている。一人しかいないのに、ひどく遠い。雨音が耳を不自由にしていた。
「体が冷えてしまう……ここにいては…少し、離してもらえますか」
腕が緩まり、二人の間に隙間ができる。胸の中で伏せていた顔はもちあがるもレーヴェの首筋あたりで止まった。真上からは長い睫毛がよく見えた。レーヴェは少し腰を屈める。
「どうして……泣いているのですか」
彼女の頬が涙で照りかがやき、押し殺した震えが小さな顎にとどまっている。唇の隙間から途方に暮れた熱が吐きだされた。悲しみに浴しているなら暖めてあげたいという純粋な想いがレーヴェを突き動かした。慌てて上着を脱ぐ。しかし被せようと広げて、それが叶わない事を知った。
着衣はぼろ布のように散々な姿になっていた。何が起こったかわからず息を詰める。背面は真っ二つになり、かろうじて襟でつながっているだけだった。こんな派手な色合いのものを着ていたのかと思ったが、よく見れば繊維の奥まで血が染み込んだことによる変色しているだけなのだ。
レーヴェは動揺したが、ゆえ知れぬ戦慄に襲われながら、一つの結論にも至った。ゆっくりと衣を下ろし、彼女の瞳を真っ直ぐに覗き込んだ。
「……貴方は、"あの子"ですね」
彼女は涙を流したまま、言葉を咀嚼するように目を閉じた。唇が音もなく感嘆したような気がした。しっかりと頷くまでに続いた沈黙は、これから堰を切って運命が走り出すことを知っていたように思う。
依然として美しい彼女は、少し疲れた様子だ。だが固い顔つきに誠実さが一気に乗った時、対面しているのは前進を決めた覚悟だった。憂いを帯びた顔に理知が一挙に流しこまれて、その顔は闇に翻る刃のように煌めいた。
「助けてくれて……守ってくれてありがとう。とても嬉しかった」
「何も……何もできませんでした」
「ううん。そんなことないわ」
「ここはどこですか」
「私にわかるのは感情だけ。貴方の方が詳しいでしょう? この光景は私の記憶ではなく、貴方が体験し、再現しているものだから」
「……なぜここが」
「大切な場所だと思っているのでしょう。幸福と不幸はここから始まったと強く思い描いている……だからこんなにも雄大で、同じくらい悲しみが満ちている」
さざ波が押し寄せては崩れていく。用意された神秘は同じ場面を繰り返していた。
「貴方は……何者なのですか」
彼女は大広間で助けた"あの少女"だ。だが容姿は現実の記憶とは異なり、花群れの下に集った蝶の化身のようだった。白い顔に柔い花弁で守られた女性の優雅さが封じられている。
「私はリーリート。親しい人はリリィと呼ぶわ。私は今、貴方に理術をかけている。貴方は大怪我をしていて、歩くことも喋る事もできない。私の理力を与えているのは、生きていてほしいと思っているからなの。貴方は私を助けてくれた大切な人だから」
"大怪我"、"理力"、"大切な人"――はからずも眉根に寄せた皺をみて彼女は少し微笑む。
「私はお父様の腕の中を抜け出して、貴方を掴んでいる。貴方が助けてくれたことを嬉しく思うこともそれを伝えることも今はできない……私は口がきけないから。だから代わりに"私"がここにきたの。ごめんなさい、混乱させたいわけじゃないの……貴方を救いたいだけ。それだけは信じて……」
レーヴェは即答した。
「信じます。ですが貴方はとても焦っているようにもみえます」
何を言うか感じ取った彼女の眉が先んじて歪んだ。
「私は死ぬべきですか」
「いいえ! いいえ、そんなことさせない……でも反発があって理力が浸透しきれていないの」
「反発?……私が理力を扱えないからですか」
「いいえ、違うわ……貴方の中に…中に…………」
「……なかに?」
「……」
レーヴェは思った方向へ話が進まないことを悟った。下唇に指を伸ばし、噛みしめる唇をそっと和らげる。彼女は指先に口づけして目を閉じた。
「……蛇はどこにいったんですか?」などと、全く別の事を訊ねたのは物悲しい海辺が異様に澄み切っていたからだ。今、なんの術も持たない筈のレーヴェがこれらを作りだしたというのなら、あの黒蛇にも意味があった筈なのだ。
静けさを壊さぬように彼女は囁いた。
「……貴方の中にいるわ」




