401 肉料理:■■■■・■■■■■■(14)
お姉さんは心の扉を閉めるように「いいの」と素早く言った。声が潤んでいる気がして胸が騒ぐ。
「どうしたんですか……何かあるなら、どうか教えてください」
「許しなんて必要ないって……そう言ってあげたかった……」
それは人影が発した言葉に対してらしかった。子供が見捨てた自尊心を、彼女が拾い上げて泣いているのだ。知り合いなのかとか、詳しい事を聞きたがる子供っぽさを押しこんで、それきり黙ってしまった彼女をそっと抱き返した。
「……向こうの声に驚いたんですね。大丈夫、大丈夫です。ああして話し合うことができるんですから、知恵者は知恵者で放っておくのがいいんです。お話しているのが好きなんですから、心配することありません。勿論子供に手をあげる人はたくさんいますが……、そういう人は最初から聞く耳を持ちません。あの二人にはきっと、かならず、明日があります」
すらすらと口をついて出たのは妙な確信があったからだ。向こうにはこちらの声は届いていないことも後押しとなっていた。目につかないのなら、今の時間は二人だけの秘密だ。
「でも……心配を手放す方が容易ではないでしょう? それが仕様のないことならなおさら……考えずにいられないわ」
「……仕様ないことなのです。貴方はいま、そう言いましたよ。そう意固地にならないで。考えてばかりだと、それっきり何もできなくなってしまいます」
時は誰にも平等に流れている。その中で人と話している時間なんて極端に少なく、そこに卑屈さや自虐を用いる必要は本来ないのだ。他者のこと、殊更自分に直接関係のない事を考えるなとは言えないけれど、すべてを「知りたい」「自分にどうにかできる」と考えるのは苦しいだけだ。何故ならそれは決して叶わない願望だからだ。
これはレーヴェが短い生涯の中で得た教訓だった。
口から先に生まれたと思う程、自分の考えを最後の一滴まで絞り出し、相手に理解して欲しがってしまう癖がレーヴェにはある。自分でも相当な悪癖だと思っているが、どう仕様もないことだ。相手のことを知りたがってしまうし、わかりあえることを夢見てしまう。そのこと自体はきっと悪い事ではない。
勿論誰彼構わず、道行く人を掴まえて話すかといえばそうではない。気を許す相手には内心で抱える甘さを心底吐露してしまう傾向にあった。その相手はシャルルであり、最近のバティストンだった。二人はレーヴェにとっての"前後"だった。二人の間にいることで「わたし」と「あなた」が生まれて、存在するだけで傷つけ、言葉でも態度でも傷つけられることが増えていった。
何も知らぬ世界に投げ込まれたことで抱えた罪過、その発端はバティストンやシャルルにはないのだろう。彼らは家を与え、知を分け与えてくれた。それが打算的だとは言い切れない。養子であるレーヴェに対してだけではなく、商会の従業員に対してもいくらかの優しさを持って接していることからも窺えた。暴行や暴言を与えることも多々あるが、仕事だけで生計を立てていけるように従業員やその家族の世話をしている。広義で見ればバティストンは篤志家といえるだろう。
海辺で途絶えたレーヴェの世界は修復され、目の前に用意されたのはフロムダール家の子供としての道だった。それはバティストンによって踏み固められたもので、安全で舗装された申し分ない道だった。
本当の家族とはかけ離れているが、彼らと家族になりたいと思ったことも嘘ではない。けれど一度だって彼らに自分の境遇を話そうと思ったことはなかった。
レーヴェには他人がよく見えていた。常に苛立ち、誰彼と怒鳴りつけていたバティストンは教会と付き合うようになってから少しずつ落ち着き、他者に目を向けるようになった。その分物思いに耽る時間も増えている。レニエは自分で産んだ初めての子を愛した。化粧鏡の前に腰かけて、女達の賑わいを背景に自分の顔を睨み続けていた日々を二度と繰り返すまいとしている。最近は母親の役が気に入っているのだと思う。自分で赤ん坊の世話をすることもあるのだから。
そしてシャルル。自らの不安定さを見て見ぬふりをしている彼もまた、本音を隠し通せると思っているが仮面はとっくに剥がれている。彼に家族を作ってあげることが、彼に与えてしまう痛みに報いることなのではないかと思った。それは彼自身には決して成すことができず、外側から強引に進めなければならないことだ。そしてその担い手になれるのはレーヴェだけだった。人の生涯への過度な干渉だということはわかっている。いるけれど、企てた価値があったことは今日証明されている。
たった一つの願いを叶えることさえ、これほど時間がかかり、反発があり、後悔と徒労がある。もしも今日バティストンがシャルルを養子に迎える話を口にしなければ、また異なる夜が訪れていた。そう思うと一抹の不安が頭の片隅に影を与えた。




