40 正しい信仰と、
坑口そばに停まった馬車にボイエスが駆け寄る。従者が馬車の扉を開き、中から牝牛の角を持った男が降りてきた。つばの反った半球体の帽子と、牝牛の角、そして純白の司祭服。身分を表す白をまとう老齢の男だ。
トーリン・シュナフ鉱山をマーニュ河岸にそって南下すると「治癒の館」いわゆる、アメタストス施療院があり、そこの代表を務める司祭で、ゲオルグという。ボイエスは男と面識があった。
「ゲオルグ様! どうしてこちらに、この馬車は」
「あぁボイエスさん、御無事で何よりでした。山崩れの音が当院にも届きました。実情を掴むまでに時間がかかり出足は遅れてしまいましたが、それでも人が必要かと思い、物資とともに参った次第です」
「アメタストスからわざわざ…それはありがとうございます。運がいいことに誰も失うことはありませんでしたが、この通り環境の変化というものがありますので…」
陥没孔の方へ体を向けると、牛が鳴いて雨が降り始めた。
ゲオルグ司祭は陥没孔を眺め、目を細めた。鼻の下に指をあて、とんとんと叩いている。ボイエスは体重をもう一方の足に移動させ、司祭から目をそらした。
「そのようですね…残念に思います。貴方方の幸福と平和のために我々もできる限り援助いたします。どうぞ物資も牛車も差し上げますのでお使いください」
「いえ、施療院も大変でしょうに。けれど有難い申し出です。今は明日の事を考えることもできませんが、落ち着いたときには…」
「構いませんよ。当院は寝台も余裕があり、治癒師も常駐しています。みなさんを受け入れることもできます」
「それは………」
「…罪人のいる場所に足を踏み入れるのは怖ろしい?」
「そんな滅相もございません…! 司祭様のご活動はご立派だと思っております」
アメタストス施療院―――治癒の館、いわゆる、罪人を専門にした隔離病院。ボイエスは何度か足を運んだことがある。あの陰湿な場所は空気さえ重く感じる。顔を上げたが、うめき声が出そうになった。
「アメタストスは通常の治療もおこなっておりますよ。我々はどのような患いでも親身に受け入れる場所というだけです。もしお困りごとがありましたら、いつでもお訪ねください」
「そうでしょう…はい、そうさせてもらいます。重ねて御礼を申し上げます、司祭さま…」
次第に強くなる雨足に、鉱夫たちに牛車の荷台に乗るように指示し、鉱山町への移動を指示した。
「恩人さん、あんたも乗ってくれ」
入坑口や建屋の周りを見回り、残りがいないか確認して戻ってくると、エドが女の横顔に話しかけていた。腕を引こうとして躊躇うのが見える。
丁度ボイルと合流し、二人に駆け寄る。
「先に……どうかエドさん、皆さんも先に…」
「リーリート・ロライン」
それは遊んでいる子供にかける母の声のように、穏やかな呼び声だった。
司祭は彼女をじっと見つめ、目を細め、口元は月のようにあがり、ただ微笑んでいた。
上背のある男たちの間をすり抜けて、彼女の背が遠ざかる。先程までの幸せそうな顔は、今は信じがたいほど青白くなっていた。
―――教会への尊重、司祭への歓待、存在の尊寿、気遣いに対する感謝、
鉱夫らの脳裏にはそれら、世界の存在意義である教会人に対して、たえず順奉する感情がくり返し生まれた。それは【白】をまとう者に無条件に思う感情であり、この国に生きる多くの者がもつ感覚だった。
しかしそう思いながらも、口からは全く違う言葉がでそうになっていた。
真っ白い祭服をまとう司祭の前に、リーリート・ロラインが跪いた。
ゲオルグは笑っていたが、女へ向ける視線にはボイエスが施設院で感じるものと同じ暗然たる何かが孕んでいるような気がした。
「お姿をお見かけして夢うつつのことかと思いました。龍下のご心痛が増さぬことを祈るばかりです……落盤を事前に心配なされていましたか」
女はぬかるんだ地面の上で片膝をつきながら、頭を下げ続ける。
「いいえ。もともとこういったことは商会がすべきことです。国家に属する理術師として御前会議での議論の結果、私に依頼がくるまで待つべきでした」
「貴方が乗り出した要因については問いません。こういった荒誕をまたなされるつもりがありますか」
「…………それが私の…いいえ」
司祭は「あぁ」と、口を開けて笑い、手で覆った。
「貴方の肩書きについて多くの論評を耳にしますよ。職務に大変熱心にしていらっしゃる。けれど貴方が本来の役割をしっかりと受け止めて、龍下の期待に応えることをお忘れではないかと懸念する声もあります。貴方の希望を達成したいと心を砕いてくださる龍下に何らかの跳ね返りが生じる前に、貴方が実りの無い誤った道にこれ以上進まぬことを念願することは悪いことでしょうか」
「…………」
女の肩が微かに痙攣したのを鉱夫たちは確かに見た。
女は黙ったままだ。ボイエスは今にも飛び出そうとしているボイルとエドの腕を精一杯掴んでいた。土に足が埋まる。
なおも笑う司祭は「そうですか」と首を傾げた。
理力の帯が司祭の周囲に浮上し、光球が夜に鮮やかに煌めいた。星の海原に伸ばした手の上に、虹色の油膜を帯びた球体が生まれ、徐々に大きくなっていく。
司祭の手首が上下に折れた瞬間、球体はその動きの通りに、落下した。
バシャン―――水球が彼女にぶつかり弾けた。
何度も何度も、
「泥濘に耳と口が塞がれておられるようでしたので」
周囲に膨れ上がった驚きは隠すことができなかった。どよめく鉱夫たちの前で、女は頭を振った。それでも声は堅く、芯が在った。
「いいえ、………いいえ。いうまでもなく」
「結構…龍下には貴方の献身により国民の命が守られたと報告をいたします。貴方は早急にアクエレイルに戻り、身を清めなさい」
「はい。ご指導いただき心より感謝申し上げます。お時間を取らせたこと、お許しください」
「お待ちください…!」
リーリートは目を見開いた。頭に白い布が飛んできたと思うと、肩に強い衝撃を受ける。武骨な、力任せの腕はリーリートをしっかりと掴み、同じように片膝をつきながら司祭を見上げていた。
ボイエスがいかずとも他の誰かがこうしていただろう。彼は唇を戦慄かせてもなお、声をあげた。




