399 肉料理:■■■■・■■■■■■(12)
(……貝を……かあさま、に……………)
何度喪失を味わい続けるのだろう。浜辺に寝転んで、風と波の歌を聴くだけでいられたらいいのに決してそれは許されないことなのだ。
むろんその理由は人攫いにあったことだが、生きることが難しくなるのはいつも他者が存在する時なのだ。その事に気づくには早すぎた感はある。たとえば砂に書いた侮蔑の言葉は単独であればなんの効力もない砂の起伏に過ぎない。けれどそこに前後を添えれば、他者を傷つける言葉として生まれる。私は貴方が嫌いです――ただ嫌いと書いただけではなんの意味もない言葉なのに、罵倒の言葉に生まれ変わって鋭い切先を相手に向けて、口にすれば胸を刺し貫くことになる。
他人の間に生きることは、そうした前後を作り出すことなのだと思う。そうしていつか自分自身も誰かの前後になってしまう。人の間に生きる限り避けられないことだ。
もしも世を捨てて、たった一人で生きていけさえすれば不合理なものに関わらずに済んだだろうか。攫われて、見知らぬ場所に売られ、知らぬ男の息子になって、他人の承認や規律の中で生きなければならない今は、安全や平和と引き換えにして押しつけられた世界だ。数えても不幸ばかりの……望んでもいない……
(うそだ……うそだよ……良い事だってたくさんあったよ……)
涙が真横に流れた。元の意味を失った罵倒が涙と一緒に溶けていく。レーヴェは実際に他人を侮蔑する言葉とは無縁だった。言葉が侮蔑として吐きだされるには、侮蔑として使いたい意志がある時だけだ。レーヴェは誰の事も恨んでいなかった。一日一回まともな食事にありつければ贅沢だと考えたことのある子供は、生きることさえ慈善にあずかっていると感じることができる。フロムダール家にいる時も、風呂屋にいる時も、レーヴェは自分の心を原型も留めぬほどに改造していた。
無垢な心のひび割れから流れ落ちた涙はいくつもの反論を押し流した。
『―――………』
「……?」
意識の端に、誰かの声が訪った。気づけば無音だったレーヴェの周りにはたえず色々な音が響いていた。そこにあるのは血だまりを叩く音でも、うずたかい罪のにおいでもない。顔の目の前まできた風が全身を包んで、高い空に抜けていく。海だ。廊下に倒れている筈のレーヴェは浜辺に顔半分を砂に埋めながら倒れている。海が一列に並んで白い砂の上を往来しているのが見えた。妙な感じで、それはとても懐かしい場所のように思えた。
『………………君に知識があったとして………彼女の痛みを感じていたとして、君の中に彼女の苦しみが溢れているとはいえない』
砂浜に立つ二つの人影が見えた。
司祭服を着た背の高い男が海を見みながら喋っている。落ち着いた声で語りかけているのは、少し離れた場所に立つ幼い子供だ。端切れを接ぎ合わせた服を着た痩せた男の子もまた海を眺めている。
二人の間にはどうしてか悲哀が感じられた。人付き合いに失敗して、むっと湿った感じと、それでも具合が悪く二、三時間話しているというような矛盾が浜辺の端から端までつまっている。こんなにも開放的な場所なのに、自分の内面に首を突っ込んで物を言いあう二人にレーヴェは「お茶をだしてあげなきゃ、母様に怒られちゃう……」と腕をついて体を起こした。
「あれ、起きられる……からだ……なんともない」
それどころか体が軽くなって、レーヴェはどこまでも行けるような気になった。
額を叩いてみる、ちょっと痛い。でもなんともない。頬に指をうずめ、口の中にいっぱい息を貯めてから、唇をすぼめてふぅと息を吐いた。お腹が熱くなる。顔もぽかぽかしてくる。体はどこも元通りだった。
もしもレーヴェが頭を使ってさえいれば、人が最期にみる夢の中だということは気がついていたかも知れない。レーヴェの頭は始終ぐちゃぐちゃで無いに等しく、生きるという最後にまとっている情感だけをまとっている。
海とレーヴェの間に立っている二つの影は盛んに何か言いあっているようだ。風が届ける声を聞いていると高度な教育を受けていることがわかる。一方の靴底は厚く、すり減っていない。もう一方は栄養不足気味だけれど胸を張って立っている。どちらも心が高い場所にあるのだ。空のもっと澄んだ場所に。
子供の声はこう言った。
『僕はその言葉を聴いたとき、貴方が他人と同調したり共感するためには相手と同じ状況を知らなければならないと言っているのだと思ったのです。歳を重ね経験を積んでいけば、相手の痛みや苦しみを想像して、力を尽くして両者を一つにまとめあげることができると教えてくれているのだと……確かに僕は自分の無知を引け目に思っています。貴方の視点や言葉はある意味で誰よりも優れた視点で全体を見ています。だけどその目の中に期待がありません。希望がありません』
『…………』
『誤認だというかも知れませんが、これは僕が感じたことです』
大人はこう答えた。




