398 肉料理:■■■■・■■■■■■(11)
悲しい、苦しい、つらい―――全部一緒になって泣いて泣いて泣いている。
背中は重く、たらふく殴られ蹴られて好き勝手にされているようだった。風呂屋でされたように。知らない男に跨られた日のように。
肘を立てて立ち上がろうとしてみるが、腰から下が言うことをきかない。悔しくて、胴めがけて拳を叩きつける。けれど鈍い振動だけが伝播するだけで、最早自分のものではなかった。
疲れ果てて視線をあげると白い服の男に抱かれた少女が見えた。
あぁ、あの子だ――そう思うと自然と耳に柔い声が思い出される。楽しみも慰めもない心でさえ震えながら目を覚ます。そんな贅沢な声がレーヴェの名をつたなく呼んでいる。
背中を見せる彼女は声ひとつあげず、男の腕に腰かけ肩に手を添えて、ただじっとしている。そうだ、輪の中に彼女の座席は必要ない。何が起こっているか、骨の折れる音も、ぐちゃぐちゃと肉と血がぶつかり合う気持ちの悪い音も届かない方がいい。ごく安全なふりをして、普通の招待客のふりをして悪意が中へ入り込んだ晩餐会に、彼女はいない方がよかったのだ。痛みも苦しみももう感じないのなら、それで充分だった。
もう誰も君を痛めつけない。でも少しだけ不安だ。背中に手を添える男の帯は、他の人とは違う。あきらかに権力をもった男には注意書きを貼りつけなくてはならないことを知ったばかりだ。その人は君が振り向かぬように背中を強く押さえているようにみえる。必死に守ろうとしていると思っていいだろうか。
(もうほとんど曖昧になってしまった………君以外……霞んで見える……)
瞼を閉じると、真っ白になった頭の中にさんざんやり合ったシャルルとの喧嘩が浮かんだ。あの時もこんな風に彼の部屋に倒れ込んで、これで終わりになるんだろうと思っていた。
(終わり……? 簡単に言う……小さな、私だけの世界……)
でもあながち根拠がないわけでもない。今日だって終わりがくるだなんて思ってもいなかったけれど、おそらく、それほど外れてもいない。
あれこれが今の自分と重なったことが面白く、およそ何の役にも立たないことが最後に思い浮かぶことが愛おしくもある。結局のところ、あの頃の自分はあんなに的確に考えているようでまったく的外れな思考だった。話はこうで、少なくともあなたに損はさせない、こうすれば新しい世界が待っている、だからわかってくれるはずだ! ――本当に、思考の貧しさを感じさせてくれる。それでも彼は、たったひとつ折れてくれた。そして今日、彼は棺桶を脱した。それがどれだけ奇跡だったか。世界はいつだって終着点で出発点でできているのだと、話の終わりにいえるだろう。
表面上彼はとても愛想よく、そして根気よく仕事を教えてくれていた。だがそれはレーヴェに好意をもっていたのではなく、目の前に突然現れた雇い主の息子にわざわざ身の危険を冒して罵倒したり図々しい寄生虫として扱うことが得策でない事を聡明な彼が理解していたからなのだ。
つまり、友好的な関係を強制する力がバティストンとシャルルの間に存在しているということだ。シャルルのように若くして多くの苦労を経験した者の前にわざわざ未経験の子供を置けば、多少とも悪質な態度が出てもおかしくはない。シャルルは想定通り、慣れあわず必要以上に距離を置き、冷笑し、図々しい子供として格下にみていることを隠さなかった。繰り返すがそれは当然の態度だ。
彼はいつ放り出されるかも知れない世界で、自分の席が消えてしまうことを怖れていた。レーヴェとて自分が立っていた場所は、これまでシャルルが立っていた場所だと早いうちに気づく。拙い仕事を過剰におおげさに、よくやったと褒めるバティストンの声は、きっとシャルルがもらうべき賛辞であったと理解していた。そういう時シャルルはいつも俯いて、仕事に熱中し、聞こえないふりをする。
シャルルさんの力添えがあったから、丁寧に教えていただいたからです。そうやって必ず手柄の一端を引き渡すと、彼はいつも余計な事をするなと怒鳴り(もちろん二人きりになってからだ。それ以外は表情を変えないか、父の前でだけ無理やり微笑む)地下の自室に引きこもって出てこなくなる彼にいつも告げたかった。
箱に入っていては逃れることはできないんです。あなたがいる場所は棺桶です――
そう思っていたが、人の居場所を防水布で蓋をした入れ物だと断じることは頭の中の母が絶対に許さなかった。父は別のやり方をしろと優しく諭してくれる。バティストンという豪商の「特等」になることはレーヴェにだけ許されたことなのだ。だが、それすら不幸は押しつけられた役であることはレーヴェにしかわからないことだ。演じなければ生きていけなかっただけのことを、彼はどうしても欲しがっていることを気づかないふりをするのが利口だ。だけど代わりに「兄」を求めたのは親友の代わりだとでもいうのだろうか。救い方は他になかったのだろうか――さぁ、もう顔も思い出せなくなっている。可笑しいな。記憶まで海の向こうに置いてきてしまったみたいだ。




