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リリィ 思いつくままに書きとめたささやかな覚書と一切の崩壊。無力な愛、ひとつの不幸、ただ愛を愛とだけ欲したある価値の概念  作者: 夜行(やこう)


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397 肉料理:■■■■・■■■■■■(10)

悪魔の巣窟を初めて飛び出した日。食品置き場は出口はなく、洗い場では料理長の姿があって、仕方なく商売用の部屋を通った。暗くて狭い穴倉が並ぶ。かかとを踏まれた靴が脱ぎ捨てられ、突っ伏して泣いているような声があちこちから聴こえる。中央の扉を開けて、階段をかけあがった。身なりを整えた受付の男が若々しい笑顔を浮かべたまま振り返った。客は喜々とした顔でレーヴェの全身を見た。


『可愛い子だな』


二人の向こうに出口があった。部屋はきらびやかで、花瓶が置かれ、瑞々しい花が活けられている。隅には彫刻があって、床には絨毯もひかれていた。ここが暗黒との境界線なのだと思った。

あの扉の向こうに望む世界があるはずだ。父様と母様が心配している。親友も探してくれているだろう。本当の家族がいる場所へ帰らなくては―――あと数歩のところで殴られて、逃避行は終わった。それがきっと最後の晩だった。人としての最後の晩だった。


「かあ、さま……う、う………ぅ」


腕を伸ばし、床を掴み、這う――

頑張って仕事をしている人を悪く言ってはならないと、母様、貴方の教えを守ってきました。

力強い言葉や目線は確かに血肉となって生きる方向を定めることに役立っています。様々な先生から教わったことも、自分の世界を広げる助けとなりました。でも生きるには理屈だけではどうしようもない時があること、きっと先生方も母様も教えたくなかった真実を、私は身をもって知ってしまいました。


「とう、さま……」


働くことの難しさ、稼ぐことのつらさ。貧乏人が貧乏であり続ける為に、わずかな金貨で使い倒されることも、そうした残酷な状況から抜け出すことが簡単にはできないことも知りました。お金を持つ者はみな現状維持を選びたがるのです。そして人はこんなにも悔しく、情けなく、落ちぶれることもできてしまうのです。誰も助けてなんてくれません。自分の事は自分でどうにかするしかありません。だから父様もひとりで頑張っていたんですね。上と下に挟まれながら、色んな苦労を味わっていたのですね。少し、ほんの少しだけ……これからは一緒に苦しむことができるように思えます。きっとそんなことしないでいいと言うのでしょう……やさしい父様…


「あぁ…」


涙と血がぐしゃぐしゃになって何も見えない。もうこれ以上、自分でいられる自信がない。


シャルルもバティストンも、レーヴェのことを何事も経験が少なく、未熟で、人の善性しか信じない愚か者だと捉えている。それはレーヴェが生きるためにつけた仮面だった。バティストンの養子になる前に、レニエはほとんど初めてレーヴェの顔を見て、真正面に立った。風呂屋に連れてこられて以来ほとんど会話もない。彼女は見下ろしながら真剣にこう言った。


『愛想よく結婚すると言ってくれた男はたくさんいたけども、たっぷり食べさせてくれて、働かなくても金をくれるって莫迦正直に言った男はあの人だけだったの。教養のある男は嫌い。何もかも放り投げて働くっきゃないって男が良かったの。私が女でいるためには、そうするしか…』


自分の話をするレニエは小さく『女でいるには…』と愛しそうにつぶやいた。あとから知るが、こうした会話は彼女が母親としてかけた言葉らしかった。


『黙って言うことを聞いてればいいのよ。ただで食べ物もでてくるし、服だってたくさん買ってもらえる。宝石も靴も。全部小間使いがやってくれる。従者だって付くのよ。私が自由にしていい男。あの人、貴方の事もちゃんと見るつもりよ。変な人よね。連れ子を愛そうってんだから、少しおかしいんだわ。でもそこが好き』


レーヴェは黙って聴きながら考えていた。この人がこうなってしまったのは、生まれつきの性質だろうか、それとも美しさを保つために過度に食べては吐いてを繰り返す、栄養不足によるものだろうか。


上着に入れておいた金貨も、病で仕事に出られないお姉さんからもらった菓子も、次の日には盗まれている。そんな生活は急に終わった。新しい家は綺麗で、あの日見た境界線の向こうと似ていた。中庭に彫像が立っていて笑ってしまった。ここでは盗人を捕まえる人も、検査してくれる人もいる。嘘みたいに違う世界だった。レニエは物を落とすとか配膳の時に音を出すとか、そんなつまらないことで従者達を叱りつけ、優位に立った気でいる。そして、レーヴェも順応するように迫られる。でなければ"躾"が待っている。

風呂屋では数日咳をして寝込んでいた人が、いつの間にか消えて、別の人が寝台を埋めた。元から居なかったように扱われて、行き先を訊ねても誰も答えない。信用できる相手は日によって変わり、風呂屋を支配する暗黙の規律にひっかからない為には子供でさえ金を払わなければならなかった。猛烈な口論は日に一度は必ずきかされる。小さな声で囁かれる脅し文句も、誰かが誰を寝取った話も、からかいも。何もかも違う景色の中で、憎悪と父母への愛がなかばしていた。

『善人でい続けなさいレーヴェ』――母の声が聴こえる。


「……う、……い゛ッ! ッ、……うぅ~~~おああ、さん、おあぁさん」






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