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リリィ 思いつくままに書きとめたささやかな覚書と一切の崩壊。無力な愛、ひとつの不幸、ただ愛を愛とだけ欲したある価値の概念  作者: 夜行(やこう)


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396 肉料理:■■■■・■■■■■■(9)

背中全体が真っ二つに割れるまでレーヴェは首を何度も回転させた。中断されたら死ぬのだろうという勢いが、頬骨を床に強打させ、額をかちわった。


首から腰まで骨が露出し、血の臭いが充満する。こうまでして惨く、這いずり、人の尊厳を奪われる謂れはレーヴェにはなかった。全身に痛みがしみわたり、最早正気を保っていることが奇跡だ。荒く短い呼気を連続させ、心臓が爆発する寸前になっている。


だがレーヴェは再び腕を構え、前に出し、床を掴むと這って行った。自分の体が壊れてしまった事がおそろしくって大泣きしながら、それでも人として進み続けることを選んだ。とうてい微塵も進めないことはわかっている。だけどレーヴェはこうも知っていた。本当に心が落ちなければ、真の屈辱は感じ得ないことを。


レーヴェは自分の境遇について誰かに話したことはなかった。幼少期を過ごした風呂屋でのことを面と向かって訊ねてくる者がいれば礼儀知らずということになるが、もしも純粋に訊ねられればフロムダール家に養子にきた日以降のことを答えるように母のレニエから言われている。

風呂屋では多くの女性と寝食を共にし、可愛がられ、構ってもらったのだと思う事にしているが、そんな事をいえばどっと喝采が起こり、発作が始まったかのように人々は笑い転げて見物だと言うだろう。風呂屋でまともな子育てができないことなど誰でも承知していることだ。風呂屋、淫売窟、売春宿。呼び名はいくつかあるがどれも同じだ。


レニエの仕事場であり住居でもあった風呂屋は、見た目はとても派手な豪奢な造りをしていたが、中はあちこちすり減って、馬に乗る時の踏み石の方がまだ清潔だと思う程度に不潔だった。レーヴェが寝泊まりしていたのは寝台の並ぶ大部屋の一角で、しょっちゅう女性達が出入りしていた。入口の扉は取り払われて布が掛かっており、人が出入りする度に薄桃色の垢まみれの生地が揺れた。薄布の上から羊毛の外套をまとう女性達は寝台や床に寝そべって、大抵の時間は酒を飲んで過ごしている。酒は客の飲み残しだ。守衛からくすねてきた煙草を吸う人、咳き込みながら横になっている人もいる。みな等しくしらみや虫と共存していた。


陽ののぼっている時間は眠り、陽が翳れば病人以外は出払った。入り組んだ狭い通路の向こうから叫び声と怒声が聴こえ、戻って来た人は寝込んだり、酒を飲んだり、自由な時間を過ごす。お喋りは陽気に始まり、不機嫌に変わり、最後には癇癪を爆発させてカラカラになるほど大泣きする。いつもその流れだ。糸が切れたみたいに突然寝て、起きた時には忘れている。騒がしさと完全な静寂が交互にやってくるだけの時間が、次の日もその次の日も続いた。レーヴェはそれが日常であるとは直ぐに受け入れることができなかった。だけど静かに、暴れることなく隅っこで嵐をやり過ごしていた。いつか生まれた村に、父や母の元に戻れるとまだ信じていた。


ある夜毛布を剥がれ、乱暴に揺すり起こされた。


『起きろ! はやく!』


頬を叩かれて飛び起きると、部屋の中にいたのはレーヴェだけだった。今日のレーヴェは床を掃いて、鍋釜を磨いたり、厨房で皮むきなどの半端仕事をする予定だったが、料理長(と、言わないと彼は一切返事をしない)が叩き起こしにきたかと思って一瞬心臓が止まりかけた。だが、目の前少年が料理長の使いではないことを確かめると安堵して、ぼさぼさの髪を手櫛で整える。少年の顔は知っているがほとんど話したことはない。『やっと起きたな』と呆れた後に彼は随分と気安くこう言った。


『一人足りないんだ。来てくれよ』


『どこに』と訊き返した。厨房の仕事ではなさそうだった。『いいから』彼はぐいぐいと腕を引っ張った。レーヴェは嫌な予感がして振り払う。

レニエ――あの人からはただ大人しくしているように言われている。買い手がそろそろつくはずだと言っていた。多分売られるのだろう。そもそも自分が何故ここで穀潰しを許されているのかはわからない。あの人は鏡に映る自分ばかりに熱心だったから何を聞いても無視される。


しびれを切らした少年は今度はもっと強く腕を掴んだ。


『金払いが良い客がきてるんだよ。お前のせいで逃してたまるか』

『関係ないよ!』

『あるよ。ちっさいのが好みだってさ。何人かはいるけど…要望には、一人足りない。安心しろって、お前にも分け前はやるから』


何をさせられるのかは知っている。だから絶対にいやだった。


『嫌だって? なに言ってんだよレニエ姉さんに養ってもらってる癖して。お前も淫売の子じゃないか。俺と一緒だよ』


「……ぃ、や、だッ!」


あの時と同じ言葉を渾身の力を込めて叫んだ。涙混じりの叫びで、感情や意識のすべてを吹き飛ばした。忘れたい思い出だった。思い返したくもない日々だった。





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