392 肉料理:■■■■・■■■■■■(5)
「……あの、ヴァンダール大主教のことは……どう、……なりますでしょうか」
ヴァンダールの名に息子が痙攣して、バティストンは勢いよく頭を左右に振って「ちげぇ! 勘違いすんな!」と普段の横柄さを見せた。レーヴェは朦朧とする意識の中で無意識に反応をみせただけで、ぐったりと首を折ったままだ。
高位者にすり寄る為に問いかけたと思われたくないという思惑が働いたことは明らかだったが、わからないことは聞かずにはいられない気質と、騒動の混乱が尾を引いて、結果でてしまった言葉だった。レーヴェの顔にのめり込むように荒い息をかけるバティストンに方々から刺々しい視線が刺さる。だが彼は他のものが目に入らぬほど息子に気を掛けていた。おそらく今、一番見損なわれたくない相手が彼なのだろう。外見と内面にそれほど齟齬がないことを周囲は察した。
「何が訊きたい」と、大主教は従者との会話を切り上げて耳を傾ける。
バティストンはなるべく波風立てないように言葉を選んだ。
「今日のことは……気の毒なことだと思います。大変なことをしたこともわかってはいます……でもあの方は私のような者にも親切にしてくださったので……それだけじゃなくて、ヴァンダールで商いをする者はみんな目を掛けて頂いたんです……だからどうこうって訳ではないんですが、すみません。これからこの街がどうなるのか気が気じゃなくて……」
「……治癒力に長けた術者が揃っている。すまないが、ディアリス・ヴァンダールの容態や心情について私が語れることはない。貴方はヴァンダールの商人だったな」
「はい……ヴァンダール大主教とは何度か……」
何度か逢って、いつも息子の話をしていたとは言えなかった。
息子が特別な人種である"濫觴の民"であること、それを利用して近づいたのはバティストンの方だった。だが、そうしたことは今更口にしても意味がないようにも思えた。
龍下とヴァンダール大主教の争い、子供の理術、そして無謀にも顔をつっこんだ息子。ヴァンダール大主教はどうあってもレーヴェを引き取り、もう一人の濫觴の民の子供と引き合わせようとしていた。一度は断りに行ったものの、約束の仕損じは死をもって償うこともあるとちらつかされた時は冷や汗も出た。大主教に直接言われた訳ではないが、従者にそう言われて命が惜しくなった。息子を手放したって父であることまでやめるわけじゃない。そう納得して今日を迎えた。でも、どうだ。蓋を開ければ、この混乱だ。綺麗な服をきた子供はヴァンダールではなくロライン大主教の腕の中にあるし、約束はこれでうやむやになったのではないか―――だめでも、もう一度頼めばいいじゃないか。そうやって一人で考え、一人で頷き、あれこれ先の事を片付けているあいだ、ロラインは足を止めて、バティストンを振り返っていた。
大広間での騒ぎが起こる前、濫觴の民として龍下の前に差し出された青年は、確かに「献上」と明言されていた。腕の中で大事に抱えている子供のことは手放すつもりだったのだ。ロラインは自分の腕に感じる熱を手放すことはしたくないと思った。
単純な質問にバティストンの愚直さが窺え、自然と彼が仕事や街を愛しているのだという感覚が、大きな背中を追いかけていたシャルルには伝わっていた。筋肉でできた大きな壁からレーヴェの脚がぶらぶらと飛び出て、左へ折れてまた右へと戻った。何度目かで片足から靴が脱げ落ちたとき、バティストンの横を走って、もう一方も脱がしてまた後方に下がった。細やかな気遣いだったが、その行為に気づいたのは更に後方を走っていたジョットだけだった。かかと部分に指を掛けて、ふと気になって靴裏を見ると焦げ付いて全体が変形していた。これが人の履き物かと思う。そしてレーヴェの無謀さの表れであるとも感じた。ただの子供なのに余計なことに首を突っ込んで何になるのか、レーヴェが元気になったら叱らなければ。
正直なところシャルルは大主教と対峙するレーヴェの背中を見つめ、生きた心地がしていなかった。世界が今日崩壊してしまっても構わないが、今日死ぬひとのなかにレーヴェがいることは許せなかった。燃えるとわかっていて、炎に飛び込むような愚かな子供。体は少し大きくなったけれど、それでもまだ成人していない成長期の子供なのだ。それが許せない。自分をないがしろにするレーヴェにも、助けに行かなかった自分にも。
レーヴェの唇に血がにじむ。歯を揺るがして痛みに耐えている。抱きかかえるバティストンの腕が赤く染まっていることに気づいた。血が濃密にまとわりついている。負傷しているのか、それともレーヴェの血なのかと背中を覗き込むと、滴り落ちた血がシャルルの頬にかかった。
シャルルはレーヴェの白い顔から生気が抜けていく様を恐怖とともに感じ取り、ロラインに向かって不敬といわれようと構わず叫んだ。
「背中から出血しています! どなたか治癒を、今すぐに治癒をほどこしてくださいませんか! このままでは死んでしまいます!」




