391 肉料理:■■■■・■■■■■■(4)
レーヴェの体は震え、目は石造りの廊下に向けられている。
大広間での騒動のあと、父であるバティストンに抱えられ身動きできないまま運ばれている。先頭にはロライン大主教の姿があり、彼の従者が前後をかためているが瞳を凝らしても彼らの姿は白くぼやけて確かめられる輪郭には限りがあった。
まばゆさに耐えるように細めた目で一人の少女を探した。大人たちに囲まれて安堵を覚える今、味わった早鐘の鼓動は遠ざかり夢だったのかも知れなかった。陽が沈む前の眠くなるような穏やかさが襲ってくる。肉体が変化していく恐怖や痛みが感覚を凌駕して、これ以上知覚しては壊れてしまうと感じた本能が夢の中へ誘おうとしていることはレーヴェの知るところではない。
執着だけがまだ腕に残っている。彼女を守ることができたとは到底言えないが、死との縁をほどき、生と縁付けることができたような気がして嬉しかった。それだけは使命のように思われた。
少女は別の誰かに運ばれて手を伸ばしても届かない範囲にいる。不安があるが、まずは彼女の安全を考える事が一番だと思った。時折耐え切れず吐く血まじりの咳に、呼応した声があがる。彼女だ。赤子のような甘い声で名前を呼ばれると、それだけでそばに駆け付けてあげたくなる。けんめいに叫ばれる言葉の中に少しでも不機嫌があれば、身をよじって融通の利かぬ何もかもを遠ざけてやろう。ただ怖れているのは、彼女の命を物のように扱い、面白く眺め、次の所有者に名乗りをあげようとする者たちが出ることだった。
「うぐ…ッ!」
ごりっ、と骨がずれる音がしてレーヴェは歯噛みながら苛烈に自分の体に爪を立てた。てのひらに食いこんだ爪は命令通りに痛みを生じさせる。こうして痛みをしたたかに知らねば、体内で骨が移動する感覚に気を失ってしまいそうだった。
のたうちまわって、額を床に散々に打ちつけ、片隅でうずくまりたかった。誘惑を流れる壁と柱の数を数えさせて抑える。次の柱が来たらそうしよう。これの、次の柱だ。この次。次にしよう。耐えられる。もう少し。わがままを言うな―――!
青年の白い輪郭に汗が滴る。
(……人の体で勝手に、動くな……このッ、……!……ッ)
首の裏から臀部にかけて、皮膚が引っ張られ伸びる。この異常な感覚はバティストンにも当然伝わっているだろう。意に介さない寄生虫がレーヴェを食い破ろうとしている。密閉された体の中で出口を求めて暴れ回っているのか、もしくはレーヴェは餌であるのか。
背中をかきむしって無性に引き裂きたい自傷思考を読んでか、バティストンは両腕を動かせないようにがっちりと挟み、大袈裟なまでにきつく抱きしめていた。肺を押し潰すほどの圧迫に骨が軋んで呼吸さえつらいが、無様に取り乱さないように耐えているレーヴェにとっては父親だけが自分の求めているものを知っていてくれるようにも感じられた。わずかながら理性は残っている。正気を失った姿は誰にも見せたくなかった。
痛みで呆然とするレーヴェの頭上では大主教の判断を乞う会話や報告が飛び交っていた。廊下には複数人の足音が反響し、まるで豪雨だった。走るバティストンに従ってレーヴェの体もいちいち跳ねて、顎がぶつかり舌を噛む。バティストンは自分の息子を少しも傷つけたくないと思うものの突然女のように細かい気配りはできない。乱暴さが加味される頭の中ではヴァンダール大主教の態度や行動がいまだ信じられず、つかのま豪商してではなく、一人のヴァンダール市民として振舞いたくなった。前を走る年嵩の大主教にたまらず声をかける。
「あのッ、大主教様!」
細部のことなど気にも留めない声は、いくつもの頭を越えて大主教の元まで投げられる。振り返った鋭い視線の数々にぎょっとして言葉を直した。
「ちょ、直言をお許しくださいますか、大主教閣下」
大主教は足を止めず、振り返りもせず答えた。
「許す。何の遠慮も要らん」
やや怒ったような声だが、ぞんざいではなかった。従者は値踏みするようにバティストンを睨んだままだ。それは大主教の代わりに目になることであり、暴言の雨から彼と彼が抱く少女を守ろうとする意思の表れでもあった。
バティストンは商人として従業員や商品の扱いには慣れていたが、人にどう思われるかという点については極端に鈍く、身を飾ることや言葉遣い、礼儀作法などまるきり関心がなかった。ジョットの助けもあり煌びやかな集会に参加することも多少慣れて、それなりの仮面をつけることもできたが一旦皮を剥いでしまえば露出するのは海の男の気質だけだった。従者たちに警戒されて、いつでも抜剣できるように身構えられていることは気づいたが大袈裟な反応だなと思うだけだ。頭をがしがしと掻いて、またすぐにレーヴェを抱え直して、少し唇を突き出しながら訊ねる。
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