390 序論:確率の海(15)
「僕はその言葉を聴いたとき、貴方が他人と同調したり共感するためには相手と同じ状況を知らなければならないと言っているのだと思ったのです。歳を重ね経験を積んでいけば、相手の痛みや苦しみを想像して、力を尽くして両者を一つにまとめあげることができると教えてくれているのだと……確かに僕は自分の無知を引け目に思っています。貴方の視点や言葉はある意味で誰よりも優れた視点で全体を見ています。だけどその目の中に期待がありません。希望がありません」
「…………」
「誤認だというかも知れませんが、これは僕が感じたことです」
「……私が一番嫌うのは、自己に忠実に生きない者をみることだ。言葉は私の友だが、君にとっては舌の扱いさえ大変だろう。私への憚りは捨てて、感情の赴くままに任せればいい。残ったものが自分の軸だということに気づくだろう」
「……僕は貴方にはなれません。貴方の経験をなぞることもできません」
彼は了承したとは口にしなかったが、「うん」とわざと私が音に出して頷くとほっと息を吐いた。そのあと私をずっと仰ぎ見ていたことを今更恥じて顔を背けた。
「貴方は……自分以外どうでもいいのです。他人を見下して、対等になろうとしたことは一度もない……」
「対等になるとはどういう事を指すのかな。具体的に――――少し、歩こうか」
木々が立ち働いている端へ体を向けるも、少年は思考の世界を開眼して砂地を見つめたまま必死に瞬いていた。「あ……いえ……」と、ほのかに開いた口腔の隙間に小さな前歯が並び、飛び出てきた舌の先端が緊迫した素早さで一閃した。彼の体をつついただけで、破裂してしまうのではという心配がヴァヴェルの心に宿る。
少年は思考が働かないようだった。いや、一か所に向けて働きすぎるがゆえに体を動かす余裕がないのだ。しだいに複数の布を継ぎ合わせた服は雨に濡れて、本来の色とは異なる妙な模様が浮き上がった。
ヴァヴェルはようやく彼の存在に行きつく。
「…………君は、……そうか、君か、……レーヴェ・フロムダール……」
彼の衣服の下には、忌まわしい種族の尾と鱗が存在している。そのことはヴァヴェルにさえ幾ばくかの哀切を感じさせた。
記憶にあった子供は磨かれた宝石のように整った服を着て、いかにも金を掛けられて自分の認識の及ばぬ場所から飾られていた金持ちの息子だった。身の丈にあわない豪華な服を窮屈そうにまとって、リリィや私を守ろうと目ばかり美しく光らせて飛び出してきた無謀な少年。それが彼だ。彼は今、ひとりで何もない海を前にしている。心の混迷がよく目立った顔は胸がつかえるような哀しい声で言った。
「無害の、大人しい、子供で、いられたら良かった。僕の命はまだ許されています……まだ、です。不思議と、自分で何故こうしたことを言わなければならないのか、本当は怖くて仕方がないのです。今すぐにここから……………僕はここで攫われて、海の向こうに連れて行かれたようです。ある日突然袋に押し込まれて、目が醒めると、この体で生きるだけで罪になる場所にいました」
「…………」
「僕が一番嫌うのは、自分の命を勝手に使う人や使われている人を見ることです。今ようやく言葉にできます…………あの方の命を使う貴方を認めることはできません。決してできないのです」
確かにこれが僕の軸なのですね、と少年は自らを嘲笑した。首を振って、鼻を通った笑い声だけが雨粒にぶつかって落ちていく。少年に足元に吸いこまれていったのは諦観だとヴァヴェルは気がついていた。
肯定も否定も相応しくなく、生返事さえ彼に対して不敬だと思われた。彼は自分の気持ちに向き合って、そして辿り着いた。答えを出すことの難しさ、そして到達することの偉大さは褒め称えるべきものだ。
それがいかに自分と対立する答えだったとしても些末なことだ。彼の胸の中に挿しこんだ小旗をはっきりと確かめることができた喜びがヴァヴェルの胸にしみわたっていた。それは少年を子供と感じなくなった瞬間でもあった。
「……僕のような子供に言葉を尽くしてくれたこと感謝します。時間を遣って頂いたことも」
「…………これからどうする」
少年はゆるく首を振った。
「いえ、……もう終わりにしましょう。風邪を引いてしまいます……」
自分の頭の少し上に両手を翳し、指先を合わせて小さなひさしを作る。その手の下に彼女の頭があることは互いに言葉なくとも分かりあっていた。
この子供がいつか自分を殺しにくるかと考えて、ヴァヴェルは詮無い思考を取りやめる。その答えはわかりきっている。
ヴァヴェルは胸元の留め具を外すと、合わせを片方だけ掴んで、あたう限り雨から守るように衣を広げた。少年はすぐそばで思わずヴァヴェルを見上げ、今迄堪えていたものを目尻から滴らせた。傍らへもう一歩近づいたヴァヴェルは二度と少年を覗き込むことはなかった。
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