389 序論:確率の海(14)
「手許に置いて理力を使ってあげなければと勝手に決意して、あの方の心を打ち砕いて物を言えぬようにしたのです」
「僕が危険から救って差し上げねば、というところかな。君のいう通りだよ。私が危険そのものだというのなら」
「貴方は怖れているのです。あの方の心の中から自分が消えてしまうのが怖ろしいのです。でもそれは自分の事しか考えていない貴方が行き過ぎたからではありませんか」
「ふふ」
「……何を笑っていらっしゃるのです」
「いや?」
困難に立ち向かうために最前に立っていると、そう思い込む姿は勇ましい。吹きおろしていく風が少年を気高く後押ししている。風は冷たく、澄んでいて、心を取り巻く体を満足いくまで撫でていった。
(リリィ……真上を横切った渡り鳥を君も見ているだろうか。彼らはどこへ行くのだろう。海の向こうまで飛び続ける精神というものはあの小さな体のどこに宿っているのだろう、不思議なものだな。長い時を生きていると、先に起こるであろう事柄は大体予測がつく。だから驚くことも不安に感じることもないんだよ。この少年の若さや力強さは、短い時をかけて鳴き尽くす蝉と酷似している。殻を脱いで、せっかくの静寂を引き裂くことに余念がない。しみじみと、それが宿命だからと押し付けてくる……これが本心だと本当にそう思っているのか? 彼自身が導き出したことだというのなら、それこそ怖ろしいだろう。まるで当事者のように語っている)
ヴァヴェルの脳裏にアクエレーレで最愛を看病した日々が浮かび上がった。薄い体が横たわる。掛け布は彼女の身体の細さを浮き彫りにして、まるで――
(君は長く臥せっていたが、健やかな笑みを見せてくれるだろうと疑ってはいなかった。けれど、深く眠り続ける君の側にいると不安になることがあった。君が遠くにいくような恐ろしさがにじんで影を落とした。胸元をじっと見つめ、かすかに上下していることを確かめる。そうしている時はいつも息を止めていた。目を離した隙に君が旅立ってしまったような気がして、わざと紙束を落としたこともあるんだ。瞼を押し上げて、潤んだ瞳が私を見つけるまで彷徨う数秒、すべてが信じられぬような繊細さで存在していた。君が微笑んでくれる瞬間がいちばんしあわせだった……あぁ……)
数千年前の記憶を辿る作業はヴァヴェルにとって複雑な行為だ。大切な宝石を磨いて、少しも傷つけないように気を配ると同時に、表面を薄く擦っていかねばならない。かねて考える矛盾は菓子の薄片のごとく噛み砕けるものではない。
物思いに耽る間、少年の態度は見物だった。ヴァヴェルが何か言うだろうと睨みつけている。何という純粋で愚かな存在だと思った。自分の思い通りに行くように必死に祈っている。
「………………君に知識があったとして………彼女の痛みを感じていたとして、君の中に彼女の苦しみが溢れているとはいえない。私は初めから万人に好かれようとは思っていない。もし彼女の負担が大きいというなら、私は朝早くから夜遅くまで彼女のことを考えることを控えて、それ以外の厭なこと、辛いこともとにかく乗り切ってみせよう。彼女の一声さえあれば、私はかえって気が軽い。だが彼女は私に何も言わない」
―――言ってくれない
少年の体の前を掴もうと伸ばした手は、目的を果たす前にだらりと折れる。本当に彼女がそこに居て、触れる事ができないと突きつけられれば、どうなるか想像もできなかった。
「……言葉を選べやしないだろう? 君のような逆上せあがった者のことはわかりすぎるほどわかる。自分の才能や能力に反して、他人を救おうとするなど到底なしえないと気づき始めている。何故ならば、私と彼女の問題に君が声をあげても無意味だからだ。君は自分にできる楽な役を買って出ただけで、誰にも望まれていないことを知るべきだ。彼女は言っているのではないか? "もういいから、逃げて"と。言いそうなことだよ……家に帰って、寝台に潜りこんで、他人に対して好き勝手言い過ぎてしまったと悔いるといい。首を切ってくれたらそれを謝罪として受け取ろう」
雨が降って来た。彼女の涙であることは知れている。
「……痛みを知る者とそうでない者は対等になれないと言った意味がわかりました。貴方には貴方の苦痛が、他人には他人の苦痛がある。両者の溝は決して埋めることはできないのですね」
「あぁ……」




