386 序論:確率の海(11)
「そうだ。金貨を渡すのと理力を渡すことは、どちらも援助であることに変わりはない。だが、彼女は労力を払って体でぶつかっていきたいのだ。金で解決すれば汗を掻かないだろう? そうした自分が無気力にうつる。人々のあいだに身を置くと人に成れると思っている。その苦しみを前から気づいていた。彼女の切なる決意を、周りは一本の心棒で貫かれたかのように堅固な美点だと褒める……とても……とてもそうは……」
話の最中に、寝台の隅で白布をたぐりよせる彼女が首を傾げたり、耳を素通りする髪を撫でたり、しまいには指先で肉付きの良い乳房を押さえつける。彼女は"私"を真正面から注視して、辛抱強く語りかけている。体はひどく小さく、冷たくなっているが、そんなことに関係なく心を燃やしている。肉体的より官能より、何より美しいのは彼女の心だ。
何を話しているか記憶をたぐり寄せても、私を待つのは沈黙だけだった。アクエレーレでの晩年、病に伏せた彼女を看病していたことは覚えている。枕元に仕事道具を持ち運んで、紙片を読み、墨壺に筆を挿し、略記して日の多くを彼女のそばで過ごした。薪が爆ぜる音色とかすかな寝息だけがある室内は、いっそう私の嗜好にあっていたのだ。
では、あのように覆いかぶさり、無理やりに唇を合わせたあれらの光景は諷喩だとでもいうのか。私への警告であれば、勿論私に否応あるはずがなかった。
(私が二人、どう定義すればいい? 君の分け身を比喩しているのか?)
私はかつての私と乖離して立っている。本当に私を責めたいのであれば、あの場で執拗に彼女にうずもれようとする私だけが居ればいい筈だ。それに彼女は不本意な口づけを咎めるような人でもない……
(もしや……見せつけられているのは、私だということか……リリィ)
彼女のことだけを心に懸ける男と、どうしても空しい気持ちを吐きださせようとする女は、こちらに立つ私には何ら縁もないものだと思っていた。しかし突如、肌にまとわりつく海風が向きを変えた。背中から海に向かって吹く風が、白波を押し返し、起伏の無い一面の鏡を作り出した。
その瞬間唐突に理解する。この世界は私に向けて生み出されているのだ。海も風も私に呼応している。ひんやりした、重い空気が動いた。
寝台の上で男女が体を合わせた。男の背中を掻き抱く手は背骨をゆっくりと上下し、男は女の胸に顔をうずめて動かない。女は男の膝に横乗りになって、目を閉じていた。
男が腰を動かすと、細い体が見栄えよく跳ね上がった。胸に落ちる髪がのけぞった肩から背中に落ちて、再び前屈みになった彼女は乳房を男の口元に合わせた。
もはや膝の上に腰かける女は、女として示されていた。目を閉じた彼女は頭蓋を抱き込むと、数度震えた。惑乱しながら空を撫でた視線は、なまめいた官能をもって男を刺し貫いた。
彼女は私を見ていた。没頭する男ではなく、彼女は私を見つめている。怒ればいいのか、哀しめばいいのかわからない。腕の中にいるのは私で、彼女が求めて微笑むのも私なのだ。
腕をほどき、少しの力で男の体を倒すと白い衣を乱した女は脚を開いた。またがって腹の上に手をついたところで、彼女は突然初心さを取り戻したように顔を逸らした。敏感な恥じらいが頬を染めて、首から下のなだらかな曲線へと赤みが伝播する。
視線はずるずると奥へ引き込まれていった。衣の隙間からのぞく胸やくびれから官能があふれだして、私は思わず身じろいだ。足元が崩れて尻もちをつきそうになって慌てて地面を押さえる。
彼女の目は斜めに落ちた前髪に隠れて見えなくなった。笑いかけていたような気がしたが、今は下唇を噛んで羞恥を耐える顔があまりに歌い上げるものだから、口の奥で歯がかちかちと鳴った。興奮と、得体の知れない恐怖が身の内で暴れる。欲望が足底にしみだしているような気がして、確かめようと両手で砂を叩いた。粒を掴むと、ただ指の間を落ちる虚しさがあるだけだった。
「もし……? 気分がすぐれないようですが」
膝に痩せた手が置かれた。官能の姿形は消えて、私は少年に生返事をしつつ、寝台の二人に目を凝らした。二人の姿はなかった。室内も寝台も浮かんではいない。
「………」
「お話が途中でしたが……」
彼は気がついていないのだろうか。それとも最初から居なかったとでもいうのだろうか―――
「あ、あぁ……そのようだ。逸脱したようで、すまない……」
「いいえ。披瀝するにも相手を選ぶ必要があると」
「あぁ……君は………………」
立ち上がって、周囲を見渡す。見知らぬ浜辺と静かな海だけがある。鏡面だった水面は元に戻り、天を映しとっている。
「君は……何者だ」
残っているのは、私と"彼"だけだ。




