385 序論:確率の海(10)
男女が結合に至る時、二種類の情感が源にあるものだ。なにも結合には快楽だけがあるというわけではない。触れるだけの口づけで満たされ、一方で離れがたくてもう一度唇を触れあわせねばどうしようもなくなる時がある。まるで小鳥が啄むような健やかな口づけは快楽に突き動かされたのではなく純粋な情愛の発露だ。
そこに肉欲はなく、純粋に燃えあがる心だけが存在する。
女も体も金で買えるが情愛だけはそうはいかない。一つの寝台を共有する二人は情熱でも快楽でも結ばれている。それをこの小さな子が理解できるわけがない。快楽も情熱も関心がないような年齢で、男としての資源もない体で、どうして理解できようか。
「貴方は殴られたことがありますか」
「あるさ。殴られもせず大人になった者はいない」
「私はありません。父様と母様がいつも守ってくれていたのだと思います」
「残念だな。痛みを知る者と、そうでない者は対等になれない」
「……貴方のいうことも分かります。貴方はとてもはっきりとしている。大きな木のように根をおろしている。とても頭が良い方です。物事の意味は一つではなく、自分が見ているのは側面なのだと母様はよく聞かせてくれました。貴方の話は他人に期待しないということです。冷たく聴こえますが、最上の理想を選び取る覚悟があるからこそ切り捨てることができているのですよね」
ディアリスは思わず目を閉じていた。胸に烈しく溢れるものがあった。それは大きな力で彼の体を抱きしめていた。
「でも、僕はどうしてもあの方を心配してしまいます。それは話してくれたこととはまた別で、気持ちがそうさせるのです。父様は、いつも"やり切れない"というのが口癖で、見る事のできない重い荷物を背負っているようでした。まぼろしの痛みにしきりに首を振っている……父様に何かしてあげたくても、どうするべきか思い浮べることすらできませんでした。だから、何をして欲しいか、何を考えているか聞いたのです。父様は、お前には関係がない、言ってどうなることでもないと言った。何も言えませんでした。そんな自分に落ち込んで……誰かを助けたいという気持ちが一方だけでは駄目だと知りました。やり切れない……その言葉の意味をとらえることができるのは父様だけだということも」
少年の言葉が区切られたところで、ディアリスは彼の前で片膝をついた。近寄ってもなお、視線は同じ高さではない。だが、彼が表すことのできる最大の敬意だった。
「……君は確かに聡明だ。彼女と同じく、感情を言葉にして物事を定義しようとする気質がある。それはひどく体力を使い、自分や他人を傷つけながら進む道だ。自己を探し続ける病だと、彼女は言っていた」
「病……そうですか。そうかも知れません」
俯き顔に苦痛が滲む。近づいて初めて、自分の正しさを決めあぐねているのだと気づいた。彼は真面目に導きを望んでいる。紅潮した頬はあまりに柔く、ほてっている。
「とても簡単な解決方法がある」というと、彼は今迄で一番子供らしい表情を見せた。
「話しあうことだ。もし父君を悩ませていた問題を他人に話すことができれば、物事は一歩先に進んでいた。その先に驚くほど晴れやかな展望が開けるか、破滅が待っているかは知れない。だが、抱えているよりかは余程良い」
「……披瀝ということですか?」
「そうではない。彼女が願ってやまない披瀝は相手を定めない。むしろ選別は拒絶するだろう。万人と分かり合うために胸奥を曝すことを望んでいる。いわば集合的意識の連帯を目指しているといえる」
咀嚼のため言葉を継がずに待つと、少年はゆっくりと頷いて見せた。
「私は対話の相手を選ぶべきだと考えている。極端な例をあげるが、掃き溜めに住む悪人を更生するために彼女が歩み寄ったとして、私は先手をうって掃き溜めごと悪人を焼却するだろう。彼女を奪われたり、傷つけられたくはないからだ。別の認識、別の文化を変じようとする時、起こるのは喜劇ではなく悲劇だと決まっているんだ。彼女は対話の為なら、あらゆる苦痛を受け入れるだろう。歩み寄る為の代償として自身を捧げることに躊躇いはない。だがそんな事が許されるべきだろうか? 彼女が譲歩し、彼女だけが歩み寄り、彼女だけが犠牲を払うべきだろうか。それで笑って過ごすことができるか? 私は……できない。だから常に安全な位置から援助をして欲しいと………………」
「……本当はやめて欲しいんですね」
浜辺の砂粒ひとつにさえ、吹き上げられた波飛沫にさえ、彼女の存在を感じる。口に含めばきっと甘い。最愛は、どこまでも甘い。




