384 序論:確率の海(9)
「わかりません。でも、貴方は止めに行かない。あれを見て怒っている様子もありません」
「怒る、か。君は怒りを感じているようだ」
共有している視界で成されている行為を"あれ"と表したことに苛立つが、そうした心のささくれを無視した。
(子供にしては淡泊、冷ややかで、距離を置いているように感じられる……この時分の私はどうだっただろう。ここまで幼さがなく、達観していただろうか……少なくともあの睦み合いをみて孔雀が羽根を見せびらかすのと同じとは見なかった。この黒い目は、私が何らかの不満を持っていると察している。彼女をおびやかし、衰弱させているように追い詰めている私への怒りを、誰に言われずとも感じ取っている)
数年だけ生きている子供と、数千年の時を生きた男の認識が同じであったことは不思議な感慨を生み出した。私が私自身に感じる多少の不快感を、少年もまた瞳の奥に灯している。
あどけなさの残る、丸顔の、静かな顔だ。激しい苦労を生き抜いてきた強さが、おのずと全身にあらわれていると思わされる。そう感じさせる凄みがあった。同じ年齢の子供とはどこか内包する軸が異なる。見れば見る程、より一層の違和感があった。少年の居場所が妙に光っているように感じたのだ。この子供は世界に属していない、そんな風にみえてディアリスは思わず目を細めた。
「……教えてあげよう。ここは現実ではないんだよ」
「……」
「眉をひそめたな。信じられないという顔だ。君はこの光景をみて可笑しいと思わないか? 海に部屋が浮かび、向こうと話をすることができる。けれど誰も奇怪な世界を指摘せず、取り乱すことなく、あるべきものとして受け入れている。私と彼女はこの場を構成するものを知っている。彼女はこの世の主で、正客は私。その他のあらゆるものは名もない端役だ。わからないかも知れないが、君は異物だ。どうしてここにいるのかわかるか?」
「……僕にはあの方が寝台の隅で怯えているように見えます」
「君がそう見たいんだ。彼女を可哀想な女にしたくて」
「そんな事はありません」
「彼女は守られるだけの女性ではないよ。自論を確立できる能力があり、発する勇気も代償も理解している。もしも彼女が本当に嫌だと言えば、何者もおびやかすことはできず、彼女が自身を明け渡すことを許さなければ、それ以上はない。彼女ほど自分を守る意思を持つ人はいないのだから。君達は先程こう言ったのではないか? 披瀝して、歩み寄ると。それとも好意的で平等で、礼儀と配慮された対話のほかは披瀝には値しないかな?」
「………」
「知らないことには反論できない。沈黙が何より正しい。知識を探求するのは立派だが、窓から他人の家を覗き込むようなことはしてはならない。わかるね?」
「はい」
「案ずることはない。あの二人のことは遠く離れた世のことだ。いま起こっていることでもないだろう。彼女の心情に詳しく立ち入って話そうとなどと不躾なことはやめて、自分のことだけ考えていればいい」
少年は大人しく思考を咀嚼している。無意味に反論しないところは賢く、躾が施されていることが窺える。
考え込む姿は小さく、どことなく誰かの面影を思い出させた。リリィの理力を与えられた者だけが訪れることのできる幻の世界に佇む子供。けれど、少年からは彼女の残滓が感じられなかった。浮かびかけた輪郭は枯葉ほどの軽さで飛んでいった。臀部にある膨らみは尻尾だろうか。角もみえない。柔らかな黒髪に覆い隠されているのだろうか。種族的特徴が極端に小さい事もめずらしい事ではない。
衣服をまくりあげて確かめることはできたが当然そうしなかった。彼の出自や名前に固執することもなかった。二人の自分が存在し、かつての居室といずこかの海がつながっている現状で少年でさえ見た目通りのものであるかは疑ってかかるべきなのだ。
年端もいかない子を脅威に感じることはないのだと、少年になお留まろうとする視線を引き剥がす。大人として戯れてやろうという余裕が鼻を抜けた。
(これは一時の児戯だ。幻に現実を伴わせる必要はない)
いつかの私と彼女の記憶が混ざり合って描かれた世界。理力が起こした精神干渉はありもしない光景を見せることがあるのだから。
「君は人を好いたことはあるかな」
「父と母と、友を」
「君が考え、大事にすべきなのは彼らだ。それ以外のことを考えるには幼く、世界を知るのはもっと歳を重ねてからだ」
「目の前で起きていることに無関心でいるべきですか?」
「知ってどうなるというんだ。守れると装うのはやめなさい。いかなる生を成したこともない者に、他人を救えるわけがないだろう。彼らの事は彼らが解決する。君はいま、ひとつの光景を目にして、すべてを見た気になっている。余計な世話というものだ」




