383 序論:確率の海(8)
気弱な声に何か一言二言話さなければならない衝動にかられる。でも何と声を掛ければいいのかわからず、沈黙を選んだ。寄り添ってあげたい気持ちはいつでも持っている。苦しんでいるなら、痛みの原因を取り除いてあげたいとも思う。
彼が愛するたった一人の女は激しさの中に痛みを内包する男が投じてきた石が自らの心に波紋を描くのを感じていた。円状に広がる驚きや戸惑いは、ふと生活の中で感じていた男の脆さを思い出させた。
きっと今彼は一秒が一時間にも一日にも感じられているはずだ。自分を憐れんで欲しくて核心を避け続けているのではない。彼は自分をよく見せるための努力を欠かさない人だ。他人の決意を引き出すためには自分の容姿や所作も整えて、世間そのものから本当の自分を隠遁し続けることだと信じ、長らく仮面をつけて生きている。だからこそ彼が曝した声はそうした他人に見せない自我なのだとわかる。強く怯え、俯きながら訴える言葉の意味を真に汲むことはまだできない。彼の心がほんの少しだけ開いた。もっとその奥に踏み込みたい。踏み込ませて欲しい……
彼の掲げる"生きる"とは他者に影響を与えることであり、リリィのそれとは別個のものだ。しかしそれは決しておぞましいものでも、改善されるべきことでもなく、心の中にあたたかな熱となって挿入されている。人はこうまでも強く生きることができるのだと、彼の存在が体現しているのだ。リリィはそうした魂の気高さを感じることが好きだった。彼のそばにいれば、自分もそうあれると思った。軸を刺し貫く堅固な落ち着きは自分にはない魅力として美しく映っている。
彼にとって弱い面を曝すことは、強みを手放さなければならない逼迫の中にあるということだとリリィにはわかっていた。闇の中で答えを迫られている。答えは自ら出すものだ、特に彼のような生涯の展望をもった人は。果たして私に何が言えるだろう。リリィはたぐりよせた布の下で乳房を掴んだ。鼓動が自身の生を振り返らせる。命が燃えている。ここに"居る"と教えてくれている。
(私に罰して欲しいようにも見える……憐れみではなく、愛情をもって我儘を無条件に受け入れるべきかしら?……でもそれは私がすり減ってしまう。愛がない行為なんて……したくない。私の体は欲望の道具ではないわ。考えすぎている? 貴方も真剣に考えたくなくて、簡単に求めるだけだとしたら? わからない、わからないの。だって貴方は答えないわね。全部私のせいだと言うの。それで私が傷つくと思って……でも傷つくのは貴方なの……私は何をしたらいいの?)
もしも彼が望む通りに体を差し出せば、最も明快な共生が果たされる。女の中で、溶けて、軽やかに揺らぐ。リリィが雲の流れや鳥の声に心が安らぐように、刺し貫いて一つになることで彼が安らぐというのなら…、理解はできない。体を重ねる意義が異なるのだから。でも、リリィはこうも考えた。
(本当にそれを望んでいると、もっと別の言葉で願ってくれればそれでいいの。でも、……でも、浮かぶの。傷ついた顔、渇いて、飢えて、どうすることもできない顔で、逃げていくんでしょう? 戻ってきて何事もなかったかのようにするか、この世の終わりみたいに謝るかどちらかね……もっと話をしなくちゃ……もっと深く知りたい。おかしいわ、もうずっとそばにいるのに、まだ貴方を知らない………)
知らない――そう意識すると、耐えられぬように頬に一滴の涙が落ちた。リリィの意識は体から遠ざかり、ただ単に、心から溢れた感情が涙となってこぼれただけだった。あっと思った時には既に遅く、ヴァヴェルの目が涙を追ったあとだった。多少なりとも打ち解けた雰囲気が崩壊し、恐怖や焦りが生々しく甦る。そして過ぎ去った。二人の間に残っていたのは緊迫、ただそれだけとなった。
浜辺に立つ二人にはむろん、リリィとヴァヴェルの言葉は聴こえなかった。重なって離れた二人の身体は多くの事を語った。少なくとも、普段外に漏らすことのない親密な空気はなく、私達の方を好意的にみていた彼女の視線は戸惑い、それとなくこちらに投げかけられることもなくなった。背中を見せる若い私からは明確な拒絶と嫉妬があることは伝わってきた。私からすれば、あそこにいるのはかつての私ではあるが、最愛の人に対して無理やり体を重ねるようなことはしなかったように記憶している。何も感じない女を抱いてなんの楽しみがあるというのだ、そんな事をすれば後になって苦しくなるのは自分なのだ、そう思って、背中を苦々しく睨みつける。
「貴方は、あちらの人と同じなのですか」
存在を忘れていた少年の方を向くと、何ら動揺していない表情のない子供がこちらを見ていた。妙な居心地の悪さを感じながら、「誰の事だ」と問い返す。すると少年は手のひらで、浜辺に立つ私と、寝台の上に座る私を指した。
「容姿はかけ離れている。どうしてそう思う」




