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リリィ 思いつくままに書きとめたささやかな覚書と一切の崩壊。無力な愛、ひとつの不幸、ただ愛を愛とだけ欲したある価値の概念  作者: 夜行(やこう)


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382 序論:確率の海(7)

『私は君を、君は私を支配している。それはこの世で成立せしめる唯一の基盤だ』


乾燥した唇を濡らし、圧搾した空気を逃そうと開いた隙間に舌をねじ込む。手が罵るように幾度も肩を叩き、押し返してくる。手立てを追いやるためにもっと苦しみを注ぎ込む。肺を少しずつ潰して呼吸を追いやれば、しじゅうどうにか抵抗をしていた手も止まり、彼女から放たれていた命力は衰えていく。

短い悲鳴。苦しみが広がる、彼女にも、私にも。これは愛情からくる行為ではなく、横柄で侮辱的なものだと片隅で理解していた。だが私は自分が抱える恐怖や焦りが解決するのだと信じたがってもいたのだ。口づけや愛撫で彼女の意識を奪うことに拘泥していなければ、体中から湧きあがるこの重い灰色の何かを揮発させることが叶わない。


『待って、……とまって』


冷たい声で諭してくれればいいのに、鼻に掛かる甘い声が滑稽な男を加速させる。

舌の上に溜まった唾液を舐めとり、混ぜ合い、奥深く後ずさりしようとする頭を掴まえてもっと奥へつながる。耳から後頭部に這わせた指先が彼女の形にぴたりと合い、骨と肉が吸い付いてくるような感覚に酔う。まるで彼女の身体が私に対する供物のように感じられる。打ち振られる寝具に流れる髪が、無限の欲望の昂ぶりを見せつける。その光景はこれまで重ねた熱情を復習させることとなった。寝台で、野原で、泉のそばで、駆け巡った煽情的な記憶が抱擁の強さを引き出していく。


熱が伝染するようにしつこく、おびただしく塗りこめる。彼女を抱こうという気持ちが表面に浮上して、主導権を握った。何層も重ねた恐怖や焦りは巧く収まって、口づけの音も甘く転じた。だが彼女は流されることはなかった。圧し掛かる重心が横に逸れた瞬間、さっと体をひねって寝台の端に逃れたのだ。掛け布をたぐりよせて首筋まで隠すと、性急に男性的な態度を見せた。まるでここまでで区切りと言いたげにはっきりと身を引いた。


『…………』

『いいさ……なら私が悪かったと、言ってくれないか。それで終わらせよう』

『……私がそう言わねばならない理由を教えることが先ではないの?』

『何も謝ることがないというのか?』

『わからない。でも謝ればいつもの貴方に戻ってくれるの? "ごめんなさい、私が悪かったわ"』

『……』

『貴方が言ったのよ、それで終わるって。このくらいで貴方の気が済むなら、どんな言葉でもあげられるわ。でも、ヴァヴェル、おねがいよ。何を考えているか話して。そうせざるをえなかった理由を教えてくれなくちゃ、体と心がほどけたままなの。そんなこと嫌だって知っているでしょう……』

『……私が利己的だというんだね。それは君の方なのに』

『違う、話を変えないで。もっと私達に参加して欲しいの。二人でいる時に、どうして一人になってしまうの? 扉はずっと開いたままなの。だから、お願い、ちゃんとそばにいて』

『なら、ここで最後までしてくれるか』

『なにを――』


意味を問う視線に笑みが返るが、言葉は続かない。

男は手を二人の身体の間に挿しこむと、指の腹でゆっくりと肉を押した。へその下、なだらかなへこみに置かれた指に心理的な抵抗感が走った。瞬間、脳裡を駆け巡った感情が火花となって瞳からほとばしるのを見たような気がした。


直接の言葉を選ばなかったことは、せめてもの慎みだと思っている顔が目端に入り、狂気を感じた。男は笑っている。小難しく演出してたのしもうという下卑た感情による笑顔に愛情などない。今この時、彼女は男のもつ惨めな部分を、男の不利にしか働かないが何故か子を成すために見逃されている愚かさを、深く傷つけることができた。ここで体を開き、熱心に愛し合ったとして、真綿に針を包むように受け入れることも選べた。女は強い。特に愛を知っている女は。

だが、目の前の男はこちらの口が強張ったことにも気づかず、仲を直そうとしてかえってこじらせている。何より男の顔には抱ければそれでいいとも、けれど苦しいとも露骨に書いてあった。ばかな男。自分を見失ってしまっている。


彼女はゆっくりと息を吐いた。会話が済み、選択権を委ねていると考えている男になにを言おうか考え、決まりきった言葉を思い浮かべ、それを選ばなかった。溜息を飲み込むために俯く。自分の仕草が針の筵となって彼を責める武器になるとわかっていた。


『私は……何も聞いていないわ。だから貴方は何も言わなかった。問いのこたえを口にしてしまったら、貴方の心に刻まれてしまう。きっと長く傷つくことになる。そうなって欲しくない。だから決して言わせないで、本当は貴方だってわかっているのでしょう。おねがい、自分を手放さないで……』


瞳は潤んで、宝石のように煌めいている。永遠に翳らない光が男を特別に仕立て上げる。


『本当はもっと別の話をしたかったの。ねぇ、ヴァヴェル……聞いて? あの子は■■に■■■■■。そう思わない? ■■■も、そう■つのかしらって思ってしまうの……』

『…………聴こえないんだ』

『ヴァヴェル……?』

『君の声が聴こえないんだ……』






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