380 序論:確率の海(5)
「……意思が変わるから多数決で取りまとめる必要があるんですね。私の村にも集会所があって、おとなたちが何時間も話し合いをしています」
『それは良いことね。同じ問題を取り扱うには様々な視点の協力が必要だわ』
「……積極的に発言する人は決まっていて、何も口にしない人もいます。それもまた"役割"ということですか」
『そうなるわね。怠惰を擁護したいわけでも、そう見ている訳でもないわ。誰かが先頭に立てば、どうしても援助する側に回る人が必要になる。でもそれは細部に注目したからそう思うのであって、意見が採択されて集まりが滞りなく進んでいたとしたら、集会の意義は果たされているといえるわ。もっといえば、原則的な正しさを公然と定義しないのであれば集団の意見すら必要ではないの。限られた人たちだけで取り決めたことも意見の集約であって村や国を真っ当に動かしていけるのよ』
「……ではどうして大勢で集まって話し合う必要があるのですか? もしかして、名目だけの遊びなのですか? 個人をないがしろにしないために踏まれる手続きを、外に見せるだけの……」
自分の鼓動がますます聴こえてくる。
すすり泣きがあたりに満ちているように感じる。私の焦燥や不安―――そうした実感が私の体にまとわりついていた。
寝台のそばでゆっくりと身を起こした私は前傾になったまま動いていない。長い前髪が目に掛かり視線を追う事はできない。だが横顔は彼女に向けられ、かすかに開いた唇が何も成さずにいることで何とかして理性にしがみつこうとしていることがわかった。精神を彼女に集中させようとして、別のものを思い描いてしまっているのだ。おそらく、そうなのだ。
私は私が憐れでならない。海辺に立つ私の瞼が痙攣し、眉を掻きむしった。これまで味わったことのない感情が次々にあふれてくるのを感じた。
最愛は何も気づかず、子供を求めてそれがすべてだというように目を向ける。
『私達は丁寧に他人のことを考え、尊重しているという主張を目に見える状態にしている。様々な、不要とも思える段階を踏んで、そうすることで自分や自分が所属する場所で他人と共存できるようにしているの。人の意思は個々の視点で考察されるものだと言ったわね。色々な方向をみている魂を平等に扱うための手順の一つが、複数の人が集まって相談し決定を下すことなの。合議、評議、会議、討議、名称はたくさんあるけれど、みんなでわかりあうことを目的としているわ』
「……」
『嫌になってしまったかしら……』
少年は静かに砂浜を眺めていた。砂の一粒を撫ぜる視線は、少年の精神と結びついて終始落ち着いている。
「いいえ」
少年が顔を上げると涼やかな風が通った。潮の薄い、心地よい風だった。彼の魂から発せられたものかも知れない。最愛がそう感じ取っていることを表情で解してしまう。
「もしできるのなら、やってみようと思います」
『なにをするというの?』
「目に見えないものを相手にして、話しかけることをです」
彼女は満面の笑みを見せた。花咲くように笑った。まるで彼女の居場所にだけ天に愛され、特別な愛情を注がれたかのように輝いて見えた。彼女は私に顔を寄せるとこう囁いた。
『あの子、貴方みたい』
肩が触れあって、すぐに離れた。久方ぶりにきく空虚感のない言葉が私を殊更空虚に落とした。目と目を見交わした一瞬では心が読めず、最愛の中に帰らない心が散乱していく。
『すてきね。人は現実にあるとおりのものだけを見ているわけではないものね。相手のことを自分のもつ印象で構成していると私はそう思っているの。話してみると思ってもみないことを言ったり、新しい一面を知ることもあるでしょう? 私達は空想的な考え方で相手を見ている。だからけっして相手の認識と合致することはない。それが齟齬を、争いを生む。私は相手を知ることは、必然的に自分の認知を裏切っていくことだと思っているの……たくさんそうしていきたい。対話を続けていきたいと、そう思っているわ』
少年は彼女の真意を汲んで微笑する。
「あなたは花や樹と同じになりたいのですね」
『まあ! ふふ、貴方は私の半分を分かち合った人のような気がするわ。私達は見解を披瀝して歩み寄ることができた。その行程を踏まえられたこと、とっても嬉しく思うわ』
「はい、僕もうれしいです……でも、ひれき、ですか? 初めて聞く言葉です。文脈から察するに"心の中を打ち明けること"をさすのでしょうか」
『えぇ、ぴったりでしょう』
「とても」




