378 序論:確率の海(3)
この言葉は勿論、革命がまずもって成功したことを告げていた。四十七人の一断片まで燃やした炎は、憎悪とははっきり一線を画した革命の火であった。
相容れないものに譲歩し、相手へ捧げた信頼と愛情が悉く裏切られたことに、私達の陣営は疲れ果てていた。勿論私は戦うべき相手を始末した炎の向こうに、国の規約と次の綱領草案を練っていたが、炎を操る私の手を止める者はなく、容赦を願ったり非難する者もいなかった。私は生気の抜けた瞳をしながら炎を見つめる彼らに報いを与えなければと思った。寄り添おうとした相手を殺すしかなくなった姿は、まるで■を■く■■■のようで■■だった。―――?』
何かが肌にまとわりつくのを感じた。耳の奥が塞がって、音が身の内にこもる。――――これは、何だ?
「もし、どうかなさいましたか」
横に居た筈の声が後ろから聴こえてくる。まただ。画境を越えたはずの私は最愛の人の手を握りながら椅子に座っていた。瑞々しい肌はたるみ、日焼けと手入れしていない爪が目立つ。これは私の手ではない。寝物語を頼んだ人はあの日あの時の美しい姿のまま、うっすらと微笑んで私を見ている。あの頃のままの期待の目だ。これは私だけに向けられている。続きをせがまれていることはわかりすぎるほどわかっている。わかっているよ、リリィ。
『…………異見のまま火刑に処したことを野蛮だと捉える者は少なからずでるだろう。あの頃より数百年の時が過ぎて、差別されるのは■■■ばかりになった。怖ろしい事に人はまだ誰かを傷つけることで優位に立とうとしている』
「なにが差別されているというのです」
『■■■だ』
「……それは……いえ」
彼女がおそらくもう少し元気だったら、空恐ろしいような力で討議を始めただろう。俗悪にいっているのではない、苦い物事に取り掛かるには不自由に立ち向かう強さが必要だ。
その気力を失った彼女は、水中で腐食を待つだけの天使だった。本来清浄な空気を吸う事でおのずから飛翔し、発光していた私達はいつも互いの内側に潜り込み、すべての輪郭を言語化しようと努めていた。だが果たして本当にそんな日々があったかすら疑わしい。
今や彼女は微笑むばかりで、目尻に口元に首筋に苦悩がまざまざと感じられる。そこに苛立つ気持ちなどない。あるはずもない。あるのは私が思いも及ばぬような痛みと、己の移り様を嘆きもしない彼女の強さなのだ。病に侵され、強さが残酷なまでに明らかになる。そんなものは必要がなかった。
こうしている間にも皮膚の裏側を蝕み続ける斑紋が、私を不安にさせる。鳥の声ひとつ、風のそよぎひとつ、心を預けることができない。
「お話の続きはできますか」
『……』
「望んでいるようにみえます」
お前に、お前に彼女の何がわかるというのだ。
『人の……成長の沈滞を見てしまえば、愛情の減退が起こるのも頷ける……』
「あぁ貴方は、人のことが嫌いになってしまったんですね」
彼女の唇はずっと動いていない。またこんなにも幼くもない。波の音がする。
『……両者の関係は失意によってことごとく悪化してしまった。もはや抗議運動を抑圧するために配備された執行官たちさえ不憫に感じられて、現状を改変しなくては生きる気力を放棄する者も現れかねない。そう、人は愚かにも繰り返す。消し炭となった四十七人の後を継ぐ、愚かな四十七人が現れて……また、相違の発表会が始まった……私達はまた心を砕き……』
一列に並んだ木立が浜辺のへりを押し留めている。時の茫洋たる流れの中で砂に還ろうとする世界を拒み、混迷を深く樹皮に彫りこんでいる。はたしてこの世界は崩壊を免れるに値するものだろうか。海風が泰然と立つ葉群れを叩くが渦となって、無心に立つ私の髪を乱した。絶えず聴こえる波音は心のかげりを撫でつけて、増大させるようにも落ち着けるようにも感じられる。眼前に大海原が広がっている。海は昨日も今日も明日も変わらずそこにある。その怖ろしさに身震いしてしまう。
「訊ねてもよろしいでしょうか」
「……」
「もし?」
「私に訊いているのか」
「はい」
「まったく無駄なことだというほかない」
「ありがとうございます。純粋に疑問におもうのです。どうして他人を動かすために汚い言葉や暴力を用いねばならないのでしょう。暴力や暴言のなかに新しい時代の始まりがあるというのですか?」
「お前は誰だ」
私を訪ねてきた数百の幼子の中で、誰よりも聡明で誰よりも冷めた目をした子どもが静寂を味わっている。服はくたびれて継ぎ接ぎがあるが、背筋を伸ばして立つ姿はそうした身の粗野に何の意味ももたせない。
「貴方のおなまえを教えてくれますか」
「……ヴァヴェル」
「ヴァヴェル……あの方もそうおっしゃっていました」




