377 序論:確率の海(2)
聴こえてきたのは、長い旅路の一幕だった。
水に浸した手拭をしぼるように私の口はよどみなくまわり、言葉が吐きだされる。頷くばかりの彼女を見ると、もう少しゆっくりと喋ってやれば良かったと、情けなさに締め付けられる。
まるで私は、私の中の力を彼女の為にぐっと近づけようというのではなく、どこまでも自分に向かって放っているように感じられた。
『―――したがって、親からの躾、学校での教育、友人同士、村落などの集団では個々人の行動を制御するために暗黙の規律に則って動いている。これは私の知見に過ぎない。だが、実例を用いて説得的に証明したのは私に携わった人々だ。
私は彼らにたいして興味もなく、過度に干渉するつもりもなかった。やらねばならないことはただ一つ。自分の使命は明らかだった。
頷かない私に彼らは私の存在がきわめて重要であると断言した。私が居さえすれば新しい成果がすぐさま手に入り、さらに作り直す必要もないということ目敏く計算したのだ。どうか進化の機動力になってくれと言われて、なるほど未成熟な基礎のもとにあることがわかった。
その集団は不完全で、陰謀家と夢想家の声が大きく、糾弾と運動の反動によって善人が被害を受けていた。転換は予期できたが、私が関与して変革をしなければならないという認識には至らなかった。勝敗を決せずにはいられないのだから、放っておいてもどちらかは勝利する。それに"万人の平等化"をめざしながら、内部の格差を洞察することのできない彼らが革命に値するとは思えなかった。
私はその場をあとにしようとしたが、最後には伸ばされた手を掴んだ。
夢想家や陰謀家の裏でじっと縮こまっている善人を見てしまった。彼らは体中に不幸の鎖が這って、苦悩に貫かれていようと何も言わずに前を向いて生きていた。憐憫をまくしたてる者をよそに、窮乏の思いを表に出さない姿に心底憐憫を感じてしまった。それは彼らの気高さに対する冒涜であることはわかっていた。善人たちの前に膝を折り、何をしているか訊ねると彼らは私に向かって祈りを捧げ始めた。最後の審判を下しに来る密使がきてくださった。やっと苦悩が終わるんだと微笑んだのだ。そのあと私が彼らの為に施した物や規則、闘争への加担は、すべてこの微笑みの為にあった。こまやかな愛情などではなく、敬意を感じたものに対する儀礼的な嗜みからだということは付け加えておく。
その頃の複雑な政治情勢の中で、アクエレーレ分裂問題に対する統率役を引き受け、支持者と暫く暮らした――彼らは誠実な庇護者を求めていた。私の知恵と理力に平和を見出していた――内外の脅威に直面したアクエレーレの面倒を見ていた。
無意味に乱立していた政党を滅ぼし、最も決然とした政党だけを残した。結果は今のアクエレイルが示す通りだ。すばらしく上手い処理方法だったと高く評価したのは時勢を読むことのできる者たちで、たとえ永久的であっても制圧されたまま命を終えたいと思っていた者たちは激しく否定的な言葉をしたためた。
彼らは薄汚れた紙に高圧的で誤字だらけの抗議文を書いて高札に品なく貼りつけた。屈辱的な気持ちを知ってほしいと訴えていたが、そのどれもが無記名だった。
彼らは不満だけを団結させて、透明な仮面を被る。私のすぐそばにいた者でさえ、陰では仮面を被り、私の政治軸点を罵っていた。私は彼らの展望を真っ向から否定せず、同じ方向にあゆむことができるように精力的に努力した。
だが驚くべきことに彼らは別の明日を描き出そうとすることもなく、過ぎた事柄についていつまでも糾弾し、どうして欲しいのかという肝心な明言を避け続けた。夜に紙と糊をもって徘徊している者を捕え、対話の場に招いても、彼らは私の言葉を聞こうともせず、同じ抗議ばかり繰り返した。
新しく獲得した明日を否定することに熱心で、とどめがたいほど主張した愚かさがとぐろを巻いている。彼らに中身はない。当然だ、彼らはそう仕向けられただけなのだから。
一応まとめあげて燃え盛る火の前に突き出す。独裁だと叫び、金貨を要求し始めた。死に面してもまだ私達に謝罪をさせようというのだ。こうしたやり口は「鎮圧と買収」を繰り返させるためのものだ。彼らの裏側には金で釣りあげて先導する者がいて、賠償金をむしり取るために彼らを焚きつけている。
真に国を憂いていれば対話は避けて通らないものだ。私達は何度も場を設け、意見を取り入れて修正も加えてきた。だが彼らの望みは、運動の中で自らを形成することにあり、思想を正したり広める事ではなかった。その事ははっきりと知っておかなければならない。
私は最低限の敬意を表して儀式的な処刑方法を用いた。火刑だ。彼らは最後まで叫び続けた。
『おまえによって平和の道は覆された!』




