376 序論:確率の海(1)
『……それで二人は再会できたの?』
『いや? 都会に行った少年は向かいに住む大変美しく教養をそなえた女性と出逢い、結婚を誓い合った。故郷には一度も戻っていない』
『男の子はどこへ消えてしまったの? 亡くなっていないわよね? もしくは若者に目標と方向を示そうという、貴方なりの規律と教訓のお話かしら』
『何にでも意味を見出そうとする行為はあまり好きではないな。余白に意味を持たせても余白のままだよ。少年が描いた達成されない夢、分断された貧しい家庭、我儘な息子に苦労している裕福な家、すべてが無益なばかりか有害で好き勝手な事実というだけなんだ』
『……達成されない、冷ややかな受け取り方をすればそうね。でも一生はそんな言葉ではとても言えはしないわ。貴方が語られなかった場所に心から幸福がある……たとえ傍から見れば絶望的な終わり方でも、心の中ではあたたかくて何一つ心配がなくて……私はその子が無事に家族のもとに帰れるって願っているわ……』
『……君は必ずよくなる』
『貴方も願ってくれるのね。いつも感じているわ……じゃあ、何かお話をして。そうしたらよく眠れる気がするの』
『私の話は論文の序論みたいだなんて言ったのは誰だったかな。気が乗らないな』
『もしかして蔑んだと思っているの? 貴方ってそういうところがあるわ。あの時説明して、そういう意味だったのかって納得したのに。またそうやって傷ついたふりするんだから。貴方のことを尊敬しているの。私には物事を俯瞰することも論じることもできない。聡明さが感じられて……もしかして、褒めてほしいからそんなこというの? もう!』
『そうだよ。だって一回じゃ足りないんだ』
眉をあげて驚いたあと、彼女は唇を突き出して甘い吐息をこぼした。甘ったるい匂いが鼻を抜けるが、同時にじめじめとした穴倉を連想させた。
「動物のねぐらのことですか? どうしてですか?」
声は後ろから聴こえる。私と彼女しかいない室内で、幼い声に私は驚きもしない。
「ご両親に聞かされたことがあると思うが、この国はかつて他国からの侵略を受けたことがある。北の寒冷地から意見の異なる人々がやってきて金貨や物資を奪ったり燃やした。強盗の集団のようなものが来たんだ。それにより何百人もの人々が住処を追われた。放浪する人々は洞窟に難を逃れると怪我人を敷き詰め、入り口を封じた」
「封じた? 穴の中に街があったんですか?」
「あったのは暗闇だけだ。私は入り口に立って、じめじめした岩肌に荒い呼吸が反射するのを聞いていた。もうほどんど思い出すことはできないが、息苦しさだけは忘れることはできない。その穴倉の残光が病床の彼女と重なってみえた。投じた薬が全身を侵して寝台から下りる事の出来ない日々が続いていた――薬の量はもう安全でないと感じるほどだった――くたりと首を折り、私にすがりついて頬ずりをしようとしてできない彼女と岩肌に寝そべる女が重なる。けれど彼女は苦しみを抑え込みながら、いまかと話の続きを待っている」
「とてもかなしいですね……」
「かなしい、か。私はそうした曖昧な言葉が不愉快でならない。何が悲しいのかはっきりしてくれないか。弱り切った彼女か? 道化を演じる私か、それともお前か?」
「貴方は僕の友達に似ています……ほら、お話が始まっていますから。遮らないで最後まで聴かせてください」
少年の声に従って口を噤む。寝台に横たわる女と寄り添う男を遠く眺めながら、私は自分が分離していることに気づいた。寝物語をきかせる私は彼女の願うままに空想を紡ぎ出している。頭に、彼女を喜ばせようという気持ちだけが閃いている。だが気づけば私は画境を突破し、外側の通りに立っていた。よろめくと誰かにぶつかり、相手が声をかけてくる。「だいじょうぶですか?」
そうか。私は既にアクエレーレでただ彼女のために生きていた頃とは違い、時の移りと共に、その場所を眺めることしかできなくなっていた。今の体は欲深い男のものだ。大主教がまとう色付きの帯が心のどこかに引っかかる。これは私の色ではない。だが、真に私の色はなんだというのか。胸のつかえが取れない。
「貴方にとやかく言う気はありませんし、言うべきではないのだと思います。母様にはそう教わりました」
「なんと教わったのだ?」
「思ったままを言うなと」
額にうっすらと汗がにじむ。私の方をちらと見上げた視線、その黒にかっとなる。だが、怒りなど滑稽に感じて何も言い表せずに黙り込む。私は私の声を聴いていた―――何一つ思い出すことのない少年は私の存在を押しのけて、既に二人にのめり込んでいる。




