375 肉料理:■■■■・■■■■■■(3)
浜辺には腰袋と角灯が残されていた。数枚の貝が熱のない冷たい現実を知らせる。
消えてしまった友を探し求め、親友は顔を真っ赤にして走った。あちこちに立つ木から木をつたい、浜辺や岩場、大波小波のなかまで落ち着きなく眺め惑って、真っ暗闇の中で何度も叫んだが返る声はない。夢中で、最早彼自身も背後を気にしていなかったし、また誰かに助けてもらいたくて仕方がなかった。
波間で泣く少年を見つけたのは彼の従者だった。ともだちに逢いに行くからお前はついてくるなといつも広場に置き去りにしていた老いた従者が、海をしとねに声を散らす少年の首根を掴んで抱き上げる。海は二人の手足をおしつける。それでも従者は蹴り立てながら浜に戻り、血潮がざわめくままに少年の体を押し倒した。星の光が瞬き、涙は真横に流れた。
執務室で紙束を仕分け、頭を掻きながら数字の海に没頭していた領主は、勢いよく飛び込んできた執事の言葉に椅子を飛ばして立ち上がった。使用人用の階段を下り、目当ての部屋に直行する。使用人たちは壁際に立ち、主人の為に道を開ける。人群れの奥、壁掛けの燭台がゆらゆらと揺れて、ずぶ濡れの息子を照らしていた。おびえた下女が布を落としそうになりながら一散に頭を下げる。「なんだその格好は」と、領主は息子が立つ土の地面に下がることなく言葉だけを打ち下ろした。振り返った息子はいかにも煩わしそうに眉をひそめている。親子は同じ顔をしているが、父は息子の涙の痕には気づかなかった。
顛末は息子の代わりに従者が話した。友人がいなくなったから家の者を捜索に使いたいという。暖炉から火掻き棒を取ると、従者の肩に叩きつけた。キャーッと甲高い叫びがして、下女も従者も執事ものきなみ息を飲んだ。
「まだあんな汚い小屋のこどもと付き合っていたのか。そんなに土の上で寝るのが好きなら、薪小屋に入れてやる。二人を連れていけ、良いと言うまで出すな」
「旦那様、お言葉ですが」
火掻き棒を放り投げると、言葉はかき消えた。息子のはだけた胸や腕には水がからみつくだけで、傷はない。衣服を濡らした従者もまた地面にしがみついたまま動かない。
「いつまで子供でいるつもりだ」
「まだ子供です」
「ならば親の言う事を聞け」
「捜索隊を募って下さい」
「子供がいなくなったぐらいで仰々しい」
「お願いします。見つかればそれでいいんです」
「おまえは自分が嫌にならないか。散々迷惑をかけて、家をばかにして、使用人も罵倒し、違う家に生まれたかったと何度聞いた事か。それなのに助けてくれというのか。好き勝手してきたやつの理屈が通るとおもうか!」
「……」
「お前達も手助けをするな。甘やかすだけでは躾にならんと、これでわかっただろう」
少年は体を前に倒すと、跪いて頭を下げた。領主はこのような姿をこれまで何度も見てきたし、自分でやってきたが、自分とうり二つの息子がひたすら嘆願するさまを見たのは初めてだった。
自分の名前にも家の財産にも頼らずに生きていくと豪語していても、やはり毛の生えていない子供だ。自分の思い通りにならないことを今頃わかるとは情けない。今となっては遅いのだと領主はそんなことを考えていた。土の上で「おねがいします」と恥辱と涙を融かして煮詰めたような声がする。何もかも気に喰わない。
海辺の小屋に住む小汚いこどもと仲良くしていたのは知っている。あれの父親にはいつも雑用を任せているが、知略はあるのに融通が利かず孤立している心底哀れな男だ。母親も何人分もの仕事を一人でこなしてしまう。筋が通って良い具合の女に見えたが、呼びつけて狭い部屋の中に押し込むと、何のことは無い。息が詰まるようなつまらない女だった。心底哀れな夫婦だ。
薪小屋に押し込められた少年は飢え死にを待つより暗闇の中を這いつくばることを選んだ。鉄の輪をはめられた足は動く度にじりじりと締め付け、濡れた体は熱を吸い取って手足の感覚も奪った。灯も窓もない小屋にともに押し込められた従者は、じっとしたまま、こう繰り返していた。
「これ以上、無意味な戦いはやめてください」
少年は黙って従者が喋るのを聞いている。
手をつないで歩いたことも、海の歌をいっしょに口ずさんだことも、レーヴェの家で初めて味わったあたたかい食卓も、涙と一緒に流れ去っていく。自分はどうしてこんなところで時間を浪費しなければならないのかわからない。自分の気持ちはまだ"弟"の元にある確信があった。だが、朝がきて、いつものように始まる一日に彼の姿だけがない。
数日後、小屋から出された少年を待っていたのは都会に向かう馬車だった。荷物も何もかも準備され、あとは乗り込むだけで終わる。父も母も顔を見せない。
少年は一瞬、馬車に刻まれた紋章を見上げるレーヴェの姿を思い出した。彼は紋章をじっとみると、少年の方を向いて首を振った。
「どうして自由じゃないって感じるの」
「……自由じゃないからだよ」
叱りつけるわけではない。純粋に気持ちを不思議がっている。家から離れたくて、レーヴェとそんな話をしたくなくて先に歩き出す。しばらくして足音が続くと、ほっとして密かに息を吐いた。弛緩した背中にレーヴェは言った。
「あの紋章の中にぜんぶ詰まっているんだよ」
さもわからない振りをしたけれど、本当はわかっている。わかっていた。
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