373 肉料理:■■■■・■■■■■■(1)
レーヴェ・■■■■■■は、海沿いの小さな村に生まれた。
人口は百人あまり、主に漁業に携わって生計を立ててきた歴史深い村だが、領主の世代交代のあとに建てられた紡績工場が大規模な雇用を生み、男達が海に出ているあいだ、女達は赤子を背負ったり幼児の手を引いて紡績工場に通っていた。
遮音や防音措置をほどこしていない織機は轟音をあげ、常に振動する家屋の中で女達は汗水垂らして絹製品を生産している。子供たちにも簡単な仕事が割り振られ、モロ芋一個分の賃金が支払われた。生産される加工品の中でも、微細な柄のほどこされた結び紐や組紐、糸と糸の間に隙間を設けた華やかな飾り布は都市部に暮らす女性たちに喜ばれ、衣裳の袖口や裾にたっぷりと縫いつける流行の契機となった。しかし名産品の知名度はあがったものの、他の村落と同様に富を得るのは権利所有者ばかりで、末端で勤労する面々はいつも貧苦を強いられていた。
黄色の旗が二流交差して飾られた集会所に、朝の漁を終えた男たちが脱帽しながら入っていく。室内は熱気に満ち、黄色い布で飾られた演壇から村人に向かって呼びかける男に視線が集まっている。参会者の意見をとりまとめるのはレーヴェの父親の仕事だった。
村内で唯一の教師でもあった父は、進行役以外にも多くの仕事を兼務し、雇用主である領主のために働いていた。父母と三人で食卓につくことは殆どなく、いつも夜更けに帰宅していた。父は自分の時間を確保できなくなるほど多忙だったように思う。紡績工場の所有者でもある領主に低賃金でいいように扱われていたことは幼いレーヴェに知る由もない。頼られれば首を横に振れない父はたくさんの仕事を押しつけられ、熱心このうえない労働を続けた。レーヴェの記憶の中の父はいつも笑っている。
母は工場と家を行き来するだけの質素な生活を送っていたが、レーヴェの教育だけは何よりも重んじていた。純然な資質をそなえるべく様々な手助けをしたことは結果としてレーヴェの精神的成熟に大きく寄与することとなる。
母は座学よりも、体の動かし方や物事の仕組み、道理を説くことを重要視していた。母自身が細かい規律を持っていて、それを厳然と己に課していたいように思う。例えば海での狩りの仕方、服を着たまま浮かぶ方法、馬の乗り方や世話の仕方、食べられる植物と毒物の見分け方などの、おおよそ座学では教わらない生き方を学んだ。
母は自分で教えられることなら例えどんなに離れた場所でも連れて行き、不得手な分野は講師の元を訪ねて、修学のあいだは黙って見守っていた。口出しは一切しなかったし、疲れたとも面倒とも一度も口にしたことはない。
くたびれた鞄の中には工場から持ち帰った縫い仕事がしまわれている事を知っていたが、母は他人の前では仕事を一切せず、背筋を伸ばし、顎を引き、口を一切開かず、指を足の上に揃えたまま優雅に座っていた。自分たちが貧乏であることを覚らせたくなかったように思うが、それだけではない母の気高さを感じずにはいられなかった。
時には工場から帰ってくるなり突然楽器をみせて奏で方を教えてくれたこともあった。隙間風にガタガタとしなる家に置かれた楽器は、とても不釣り合いで、その場所だけが浮き上がってみえる。美しかった。触れることが躊躇われるほど磨かれた姿にはうっとりとしてしまう。何より、少しの練習で何でもこなしてしまう母の存在は、レーヴェの心を惹き付けてやまなかった。
(母様のためにがんばりたい。母様が喜んでくれるなら―――)
レーヴェの見識は大いに羽ばたいた。父母はレーヴェを誇りに思い、レーヴェもまた家族のことをあいしていた。抱かれたり、手をつないだり、身体的な愛情は受けなかったレーヴェだが、代わりに知識という掛け替えのない宝物を抱きしめていた。
「レーヴェ! こっちだ!」
母のために貝を拾う少年の背中に、背の高い少年が手を振って走り寄る。レーヴェは笑顔をみせると、砂を蹴ってやってきた彼を見上げ、待ちこがれていたと告げてはにかむ。今日はなにをしたの、どんな勉強をしたの、二人は岩の上にちょこんと座って互いの時間を共有しあう。
紡績工場で出逢った二人は、自分たちの家が、すなわち労働者と支配者という階級に隔たれていることは何となく知っていたが、二人でいる時だけは"少し無茶が好きな兄"と、"たしなめる弟"というような可愛らしい関係を築いていた。年上の少年はレーヴェのことを「親友」と呼んだ。自分の豪華な屋敷には帰りたがらず、レーヴェの家で勉強を助けたり、お気に入りの遊びをして過ごすことを望んだ。父や母からすれば彼は雇い主の息子である。もてなすにも大人だけが感じる気苦労があったのだろう。いつも親友の見えないところで難しい顔をしている母に、少し罪悪感があった。けれどレーヴェは親友をあまり突き放すことができなかった。父親譲りといえばそうなのかも知れない。うちには来ないでとは言えなかった。
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