372 肉料理:ヴァヴェル・イシュトバーン
ヴァヴェル・イシュトバーンは、時折思いわずらうことがある。
学者的学問的思いわずらいは、最愛の人に再会するまでの熱と快活な気分を失ったときにあらわれる病だった。特に異論の余地のあるものについて、十数年経って、また数百年経ってから自分の進歩的な思想と照らし合わせて、批判的に思考することが孤独への対処法だったことは否定できない。自力で自分を救うためには、彼女と再会すること以外に活路がないことを自覚する作業が必要だった。
ヴァヴェルは孤独を好んだが、この世には人の群ればかりが存在した。
同じ姓でくくり、家名を誇り、血のつながりを求めてやまない。それが合併してできたものが家族だ。どうして人は自分以外の誰かを求めてやまないのか、徹頭徹尾定義できる者はいない。
赤子は生まれ落ちてしばらく経つと、自然と属している場所に気がつくものだ。
覗き込んでくる父母の顔をみて、なんとなくこれらが自分と団結している人であると感じる。少し大きくなって、いっしょに遊ぶ歳の近い兄もどこかで深くつながっているものとして捉える。
自分達がお前の父母や兄であると言葉で表現されずとも、目に見えない絆によって結ばれていると感じる。子供達はそうした不可視の枠組みの中で純粋な我欲を育み、秩序を学び取っていく。
自分がどうありたいか、どう見えているかなどほとんど気にかけることはない。ひとりになれば心細くて喚き散らし、かまってほしくて腕を振り上げて人を叩き、物を投げて、鼓膜が割れんばかりの声で泣き続ける。実に生物的に素直だ。
燃えるような欲望を許されても、大きくなるにつれてどうしたって理不尽を学ぶ。そうして自由に表現できていた感情を箱にしまい、自分の名前を書いて心に納めることができるようになる頃には愛と配慮を知る人格ができあがる。一方で家族や社会といった共同体のなかで我欲を抑える術を学べなかった者は、結果劣る者として苦しみに落とされることになり、欲望の奴隷となるだけだった。
おおよその人は"家族"という枠組みによって、ある程度の定めを制限される。自惚れず、謙虚でいられるか、または傲慢で、他人を敬うことを知らずに育つかは、属していた共同体の質によって大きく左右される。
家族は相養う最も小さな地域の単位であり、さらに大きな単位に仲間入りをするための修練の場といえるが、楽園にも地獄にも成り得ていた。
だがヴァヴェルはさしあたり、自分が家族という枠組みに制限されたことはないということについて一点の疑問もさし挟まなかった。複数の器を転化して永遠の時を生きてきたヴァヴェルには、真に家族といえる者はいない。敵国や自国を滅ぼして破棄と勃興を繰り返し、アクエレーレやアクエレイルの発展史上重要な役割を演じ続けてきた。生きているほとんどと合一しても、そうすることによって得られたものは輝かしい功績や労作ばかりで、自分の痕跡はいたるところにあるのに、そのすべてが代弁者のものであった。
ヴァヴェル・イシュトバーンはどこにもいない。
唯一、わが愛、わが恋人と呼べる人とは不幸にも仲たがいしてしまった。再会を信じて、骨をおり、長い旅路に身をやつす。多難を前に精神は衰え、思いわずらいも増えた。こうした状態におかれているのは自分だけなのだろうかと、ヴァヴェルは最愛の事を考えた。
もしも彼女がひどく悲しみ、心細さを感じているのならばそばにいてやりたい。ロラインに彼女の器が隠されていると知って、ゲオルグを派遣したのは百回目のわずらいの後だったように思う。いくつもの計画を放棄して、夢を現実にするために新しい現実を愛の尺度ではかった。できるだけはやく連れ戻しますと頭を下げるゲオルグに、しんぼう強く我慢することができるから――もう二度と彼女と仲たがいしないために、ゆっくりと時間をかけるように言い渡した。自分のことだけを考えていたヴァヴェルは、彼女の視野からそうしたのであった。
他方で、心の中で嘆いてもいた。
―――どうして、他の男のところで笑っていられる。
私を忘れて幸せを感じているとしたら、私は、
私は―――
ゲオルグは見事に潜入を果たしたが、そのあいだにロラインの息子二人がリリィと共に過ごし、兄妹を演じながら、恋人も演じていることを知る。認識の受け入れを妨げる情感がひろまり、しばしば精神の膠着を感じた。愚者に固有の欠陥が、自分の心にも備わっているとはっきりわかってしまった。
自分は仮借なく笑いものになっている。そう感じてヴァヴェルは初めて彼女を迎えに行くことを怖れた。家じゅうをこだまする笑い声が、遠いアクエレイルにいる身に響き、どうすることもできなかった。
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