37 想いと、
あれはアルルノフ・ベルがまだ生薬学の研究室に所属しており、リーリートの部下ではなかった頃、すなわち十二節より前の時雨の節のことである。
国立理力研究所の最奥、リーリート・ロライン教授の研究室に面する庭に並び立つ男女の姿があった。
女は今朝もよれた白衣を着て、髪を尖筆でまとめている。早朝の静けさの中で森の方を向いて立つ二人は、いつも通り連勤の真っただ中だった。研究室の床や長椅子には紙片や石が散乱していたが、その怒涛の日々も今日をもって一先ずの区切りだった。数日分の成果が形となった【原理試作機】を担ぐ男の横で、リーリートは右手で包丁を持ち、左手にある熟したオレンを一切れ刻む。酸味が口の中いっぱいに広がり、疲労に大変沁みた。もう一切れを隣に立つ男に差し出すと、男は手が塞がっているため、礼を言うと咥えて受け取った。
「君、そんなに背が高かったか?」
厚手の黒い上衣の上からでも引き締まった筋肉がわかるなと、リーリートは自分のそれより二倍はありそうな二の腕をまじまじと見る。―――シャルル・ヴァロワは片眉をあげると、リーリートの足元を見た。
「果実を一つ食べたくらいでは頭が回らないんだろう。角砂糖でも持ってくるか?」と冗談を言った。リーリートは片足をあげて少し振り、足裏に土がついているのを確かめた。あぁ、土踏まずとはそのままの名称だな、と会話になってないことを呟く。
「そう言われると腹が空いてきた……シャル?」
「あぁ、私のせいだな。でも良い兆候だ。何が食べたい?」
リーリートは、残ったオレンの実と包丁を研究室に飛ばしながら、シャルルが木製の鉢を並べて食事の準備をしてくれている様子を想像した。
肉をすり潰し、卵や小麦粉と混ぜてから軽く茹でる肉団子が好きだった。食用魚を生地につめた包み焼きも、ご馳走だった。
古く香りの抜けた果実酒でも、この男から供されるというだけで極上の味に変わることを知っている。
リーリートはシャルルを見上げ、いつもより高い場所にある整った顔を見つめた。穏やかな笑みに誘われるままに、毛糸で編まれた上衣に頬を預ける。
少なくとも二人だけの世界は完成していた。尾根の向こうに太陽が沈もうと、飽きるまでこの胸にもたれていたいとリーリートはさざ波のように広がる想いを感じていた。
背中にまわした指先が、背骨を覆う硬い鱗をなぞる。そのまま尾櫛の上を撫でていると、リーリートの背中を尾が押して、ますます二人の体は近づいた。
当時、アクエレイルと対立していた南方の国は海港都市の沖で漁を行っていた漁師らを船ごと拘束した。国境を侵したと糾弾し、アクエレイルに対し多額の賠償金を迫った。
海上の境界線については長らく折り合いがついておらず、両国の火種となっていた。都市の漁業協会に所属する漁師たちもその危険性についても重々承知しており、必ず都市近くで網を投げていたが、拿捕された者達は協会に所属しておらず、沖合で漁を行っていた。
龍下は当然人命には代えがたいと支払いを承諾したが、海港都市を治めるヴァンダール大主教は拒絶する。
領海を越えて自らの命を危険にさらした漁師など見捨てるべきだと、他国の要求を独断で跳ね除けた。
当時リーリートがこの事件を知ったのは、事が終わってからだった。告解室で龍下の独白によって知ることとなった。
漁師たちは生きたまま槍で突かれ絶命した。船に詰め込まれ、海港都市に送り返されたが、都市では彼らの骸に触れては病が蔓延ると拒絶。船を沖まで引っ張り、沈めた。それがこの国の常識だった。
リーリートの心に怒りが広がった。告解室の狭い部屋の中を突き破り、聖堂を破壊し、海に沈んだ骸をすくいあげねばならないと思った。無残にも殺され、自国の民衆に腫れ物にされた漁師らは、ただ生きていただけだ。彼らに救いの手が差し伸べられなかったのは、規則を破り、危険領域で漁を行ったからではない。彼らが「ゾアル」という種族だったからだ。
海港都市ではゾアルに対して居住禁止令が出されるほど種族を忌避しているため、彼らは都市から離れて暮らし、誰とも交流することもなく、自分たちで狩猟をして食いつないでいた。だから領海があることも知らず、少し遠く、誰にも見つからぬように漁をしていた。ただ、生きようとしていた。そんな彼らを他国の者は恐喝の材料として捕えた。
この国では「ゾアル」に対する共住制限や、黒を纏わねばならない彼らへの屈辱的な色の義務付けがあった。貧しく無力な「ゾアル」―――彼らの罪は、「ゾアル」として生まれた時に背負わされる。
神と同じ姿形をした種族―――龍の爪、鱗、尾、羽をもつ二本足の者たち。
かつて「にんげん」は神を殺し、その御力を奪おうとした。神の形を模した二本足の者は、その罪が形になったものだという。神に成ろうとした出来損ない、他者を唆し、堕落させ、病を蔓延らせる悪魔。だからゾアルは排斥されなければならない―――そう教会の聖典に刻まれている。
龍下は苦しみ、懺悔する。その教えを生み出した教会の首座に座りながら、神に許しを乞う。その教えが偏見を生み、差別を生み、加虐の現実を作り出していると理解しながら人々に許しを説いている。悪意を向ける構造として組み込まれ、役割を演じさせられているゾアルは、ただ生きていくことすら誰かの許可が必要なのだ。
山から森へ、そして庭を風が通り、白衣と髪を乱した。リーリートは両手を白衣に突っ込み、この国に染みつく加虐の現実について想いを馳せる。
口惜しかった。人々の頭を、先から先へ砕いてまわりたかった。生まれがなんだというのだ。隣に立つ黒を着る男を見上げると熱い涙が出そうになる。しかし歯を食いしばって、目だけ霞ませる。
差別は根絶する。どうあっても、そうしてやらねばならなかった。生きる意味はそこにしかない。
リーリートは火焔のような目で彼を見ていた。
「そんなに見ていられると、不安になる」
「……君に出逢った時の事を思い出していた。言ったか? 私はあの日限り家を出ようと思っていた」
さすがに死を選んだとは言いかねたが、聡い男は沈黙を選ぶ。
「あの夜、君を買った。君も否定しないだろう。君は救われたというが、生かされたのは私の方だった」
眩しいほど照明の灯った大広間の喧騒を離れ、誰にも見られぬように隠れて泣いていた夜。
湿った土の香り、砂利を掴んだ手、あの夜の香りをまだ覚えている。
「私は君に人生を捧げようと思っている…………私は、どうしても捨てさりたいものがあった。それが私と云う自己であっても。もう長らく、私の魂はただの借り物になってしまっていたから。けれど君が魂に宿すものを与えてくれた……もう二度と見る事もないと思っていたものを。こうして運よく物質的に困窮することもなく、自己本位に一心に打ちこめるのも、君が精神的に報酬を与え続けてくれているからだ。ご機嫌を取り得た結果、とも言える」
今すぐ森へ繰り出して、あの頃のように二人でいられたら。焦がれない時はない。けれど運命はいつだって空中を旋回する鷹のように、襲い掛かる時を待っている。逃れられはしないのかも知れない。リーリートは、遠く深い森を、ただ静かに眺めていた。
「人の為、君の為、とはいえ、すべて自己の為に行うことが結果として他者の為になっているだけだ。言い換えれば、勝手に押し付け、道楽を通している。だから君は、自我中心の干からびた面白くない人間のことなどいつでも好きにしていい」
何一つ具体的に言えなかった。一々詳細に説明して、どこへ好きなところへ飛んで行っていいと言葉にできなかった。弱さなのだと自覚している。
この時男は、肩に担いでいたものを下ろしていた。重さに短い草が潰れる。自立することができないので、草生の上に横たえたが、せわしい心では最後がおろそかになり、少し大きい音がした。
リーリートの意識はその音に引き戻されたが、自分に向きながら、神妙な顔をしている男に思わず口を閉じた。表情があまりに気の毒になったので、珍しく気後れした声で「す、すまない…」とだけ絞り出した。特に何がというわけではないが、詫びなければならない気がした。けれど男の眉間によった皺はさらに深まった。
男は下唇を噛み、何かに堪えるような顔をしていた。リーリートには少し怒っているように見えた。
シャルルは食いしばった歯を一瞬見せ、ふーっと細く息を吐いた。君は、と目を伏せる。
リーリートの腹の中にある言葉をもう打ち明けさせまいと遮ろうとしている。少なくともそう見えた。短いが、確かに黙然としていたシャルルは、重い睫毛をあげて、眼の奥に熱い何かを塞いだまま、しぼりだすように、やっと「ときおり、」と吐き出すように言葉にした。
「……時折そういうことを、さも……とりとめもないと言うように話す……その度に、私は研究所も教会も、何もかも粉々にして、………どこか遠く…君を…………」
最後を聞く前に一歩踏み出していた。重ねた彼我の唇から伝わるものは歓情だけではなかったが、それで充分だった。
この瞬間だけは怖いことも、苦しいことも、心残りもないと思えた。
こんなこと言う腹はなかったと思っていても、口にしなかった――リーリートは少しだけ困った。他者を愛するということ、これほど当たり前の証明はないだろう。ただ一人のために捧げる想いにしては、途方もなく大きく、一人では立っていられない。
生きて、―――耳元でシャルルが呟く。弧線を描く背中を抱きながら、リーリートは空を仰いだ。美しく輝く青空は、海の底に似ている。運命はまだそこに飛んでいるだろうか。
地下奥深く、手がかじかみ、吐息が凍る――――リーリートの耳に、遠く、白狼の遠吠えが聴こえた。




