369 肉料理:----・------(161)
(花瓶に挿した花のような男だ)
青年を吟味し終えたヴァヴェルは瞼を閉じる。
頭脳は明晰で、単調な机仕事も忠実に遂行できる忍耐がある。真面目に生きているから人の目に埋もれやすいが、高位者の前でも素直さを保持したまま媚びを売らないところは好感が持てる。一方で、もしもこれに転化するのであれば、渡世が上手いとはいえず、人の上に立つ気質もないため不十分な器といえる。軟禁されている部屋に単独で面会可能ということは同僚から一目置かれているのだろうが、社交性があるとは思えない。情感を表に出さず、やや孤独感がある。そうした姿は白い花瓶に挿した、死にゆく一輪と重なって見えた。
野に咲いていた頃は風の気まぐれに全体が揺れれば揺れ、全体が花弁を閉じれば閉じるような境遇に生まれている。光と闇の奧処に心をしまいこんで、誰の目にも触れることはなかったはずだ。これまでどのような時を過ごしてきたか一瞬興味が湧いたが、特に可愛がりたい気持ちはなかった。もっと誇るべき気質の男がそばについてくれている。
はっきりと嫌いと言い切られて穏やかに笑っていると室内に漂っていた険のある雰囲気はかすれ、たちまち倦怠感が急速に飛び込んでくる時間帯となった。体はまだ重く、だが目を閉じても覚醒して眠る事はできない。
日付が変わり、正午には新法の公布式が催される予定だ。龍下と四人の大主教によって執り行われるが、国民が待ち望む五人の姿をみることは叶わない。今も岸壁を叩きつける波が波打ち際を侵し続けているように、死神は彼らの心を侵す時を待っている。龍下の訃報を受けてヴァンダールを始め各都市が間接的に傷つき、幻となった龍下の影を追い、嘆き悲しむ日々が始まるのだ。
しかし偉大な死が国をつなぐ最も強い絆となることも確かだ。その点を利用して団結を謳うことは皮肉なことだが、哀しみだけに心を引き止めさせはしないとヴァヴェルは今世を生きる多くの人を想ってほのかに笑った。
(世はそんなつまらないものの為にあるのではなく、前進するためにあるんだ)
静寂はしばらく味わうことができなくなる。そう思うと、溜息が漏れ、ヴァヴェルは寝台に横たわったまま片腕を突き上げた。天蓋の意匠のその向こう、夜空に残る最愛の理力を引き寄せる。彼女はつい先程までそこに来ていた。闇にさしかかる月明かりに、最愛の美しさに似た淡い光が反射する。建物や空気、二人を阻む隔たりが星の通い路の前には無意味に思われた。それはヴァヴェルにだけ感じられる愛の道標となっている。
(残滓すら、愛しい……信じてもらえないだろうけど……)
青年は床にひそかに置かれた硬質な鞄から治癒薬や理力石を取り、晩餐の席でするように勧めようとする。老いの体では冷えて、皺を掻いた痒さに肌はすぐに白い粉を集めるが、ディアリスの壮年の体は体温が高く、手のひらの発汗も特に多い。慰みに、並ぶ理力石の中から冷気石を選び、腹の上で重ねた手で包む。鍛えた体を押しつける感覚は見紛いようもない若さを思い出させた。
「閣下がご用意されていた告発書は問題なく保管しております。写しは他領の大主教にお渡ししても構いませんか」
「いいが、もっと簡単に時を速めることもできる。いくつか共有したい。耳を消せるか」
防聴術を詠唱しようとした青年だったが、理力に反応する耳飾りは光らなかった。
「答えを聞かせてもらっていません。今夜の事、どうして事前におっしゃってくれなかったのですか。成すとおっしゃっていただければ私も使命を果たすことができたのです」
ほとんど変わらぬ表情の中に、ヴァヴェルの方へ踏み出した一歩が、その溺れるような一歩が感じられた。彼は自惚れているのだろうか。
「言ったはずだ。死と生を見せつけて、誰彼構わず誘惑せねばならなかった。その為には、少女を殺さなければならなかった。だが、そうすれば戦いとなる。お前は私の盾となりたいようだが、私はお前を失うわけにはいかなかった」
「ヴァンダールの事はお見捨てになる」
「手放す。が、いずれ私の影響下に戻るだろう……難しい顔をしているな。まだ足りないか、吐きだせ、面倒だ」
面倒、と彼は無言で反復した。表情が大きく崩れる。
(苦痛を感じている。侮辱、だが私へ向けてではない―――自分か?)
「……根拠が必要です。私は閣下の補佐官も兼任していますが、執行官としても今日という決断の日に使っていただけなかった事を恥じています。貴方はどうなろうと私を使うべきでした」
ヴァヴェルは目を細めた。
死んだ一輪の花が今目の前で咲こうとしている。そのことはヴァヴェルの望みではなかった。




