368 肉料理:----・------(160)
女は守るべきものである――それは数千年生きた上で覆る事のなかった論理だ。
ヴァヴェルにとっての純粋な女は、最愛の女ひとりだけであったが、それ以外の女を忌み嫌っているわけではなかった。それどころか稀に喚き散らして女を好んで虐げ、弱者排除をしたいだけの愚物などは秘密裏に処分することもあった。
種の繁栄には男女どちらの体も必要で、それゆえ"市民"または"国民"として慈しみ、龍下として疑似的な愛情を注いできた。在位期間中、一度も不信任動議が提議されてこなかったのはなにも同調圧力をかけていたからではない。膨大な理力を民衆の為に使用し続けた実績が、厳然と階級を舗装していたのだ。
社会的な不安をまき散らす者は早急に対処する。そこに男も女も関係はない。
不安を蔓延させる要因を作る者は存在意義がないから処断する。ただそれだけを決断してきた。人を援けることと、人を殺すということは龍下という職位にとっては呼吸と同義であった。常に迫られる取捨選択をこなす為には明確な基準が必要となる。ヴァヴェルの判断基準は、最愛の女と暮らしていく世界を創造するということだけだった。
器の転化をし続けて、精神が崩壊することなく数千年の時を生き続けてきたのは、最愛の人と再会するという精神的意欲が土台にあったからだ。愛に裏打ちされた決断力とは誰しも持つことのできる武器のひとつだ。ヴァヴェルは己の強みを、そうした揺るぎなさだと自負していた。
では青年はどうか。彼は少なくとも読み書きができ、健康で清潔で、太陽がよく当たる家に住み、適度に外の空気に触れている。この室内に持ち込んだ言葉は幼いが、納得いかない感情を切々と抱えたままでいたくないという若い熱と、それを昇華する相手を持っている。一方で、女子供への庇護認識はあるものの別方向の横暴や悪行は見過ごす不誠実さも備えている。いわゆる模範的な国民、それが現時点での評価だ。
少女に対する差別を忌避し、おいそれと頷けない状況ではある。だが、既に多くの差別と共存しながら生活をしているため、無力感や他責が彼の思考を鈍らせていることは明らかだ。またヴァヴェルも逡巡を理解できないわけではなかった。少女を害しても構わないと言い切れる人種は確実に不具合がある。ヴァヴェル自身も当て嵌まる欠損は、比較的一部の者に備わっている感覚だが、国民全員の感覚を歪めようとは思わない。最初に告げた通り、原点にあるのは"女は守るべきもの"であるという論理なのだ。それゆえに青年の迷いは至極真っ当なことだった。
真っ当さをどこまで適用させるか、それは議論すべきことだ。この国の規律である教会法は聖典より見出されたものだが、エゲリア写本として初版が刊行されて以来、今日まで二十三版を数えている。国民からの意見を反映し、幾度となく議論を重ね、改定し続けてきた証だ。規律は絶えず変化し、環境に適応していく。ならば人の感覚もまた、刷新していくべきところがあるはずだ。
「……龍下は少女を独占するために、精神を縛り付けていたのでしょうか」
「何を言っても推測になる。龍下の決断を真に理解することはできない。訊ねる方法もなくなってしまった」
「ご存知なのですね」
「亡くなられた理由は?」
「治療中に不手際があったようです。シュナフ領の若者が龍下を害し、同領の者を襲ったと……仔細は探らせていますが現在領地外の者との交流は制限されているため、情報の遅延が発生しています」
「シュナフはどうしている」
「龍下が御隠れになったことでアクエレイルは混乱しており、大主教はシュナフとアクエレイルを行きつ戻りつ、騒動を抑え込んでいる状況です。ですが周囲は進退について黙っていられないご様子。自己を疎外して輪の外へ押しやろうとする大主教から言質を剥ぎ取ろうとする者が集っております」
「シュナフは不手際の責任を取りたがっているだろう。あれの弁証はいつも保守的だ」
乾いた唇を舐めると、水膨れのように剥がれた皮が舌に不快な感触を伝える。
青年は再度杯を用意すると、口元に寄せて、ヴァヴェルが飲み下すまで辛抱強く介抱した。
「翼はやむことのない飛翔を求める。だが、心が動かされなければ飛ぶことはできない。シュナフは道行きの果てに終末を用意されてはじめて歩き始めるような男だ」
「まだその時ではないと?」
「……君はもっと違うことが言える筈だが?」
大きく目を見開いた彼は数度ゆっくりと瞬く。余り期待をかけられてこなかったのか、ヴァンダールらしくない言い方だったかはわからないが、彼は視線を逸らさず唇を舐めた。
「死を待つ者たちの為には明確な強みを見出すが、死が存在しない少女の前ではあの方の哲学は無力だというのですね」
「そうだよ。神は存在したのか、初めからいないのかという問題に対する答えを誰も叙述することはできないのと同じようにね。搾取を有害とする言説と効率を重視する言説、両方を選び取ることはできない。すぐれて反教会的な措置となってしまう。わかるかな?」
「はい……ですが投げられた骰子は欲深い者が必ず拾い上げるでしょう」
「欲深い男は嫌いか?」
「えぇ。とても」と青年はよどみなく答えた。




