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リリィ 思いつくままに書きとめたささやかな覚書と一切の崩壊。無力な愛、ひとつの不幸、ただ愛を愛とだけ欲したある価値の概念  作者: 夜行(やこう)


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364/439

364 肉料理:----・------(156)

『……お前は子供の生死より、体裁と地位を守った。今日まで無関心な態度を保ってきたということは、お前自身、共犯という自覚があったというわけだ。少女の命……それも親友の娘の命を見捨てる自覚が』


目を視ながら憐れんでやると、仄暗い瞳の中に悲しみが走った。


『だが友よ、私はお前を責めはしない』

「……なんだと?」


ヴァヴェルの頭の中に青と白の庭で眠りに落ちていた最愛の姿がうつる。

灰色雲の覆う自己満足の世界は、彼女の小さな寝息が自然に溶け込んで、退屈なものを他のなにものかに見せてしまうような不確定性があった。

あの場にいたのは鋲で打たれた蝶であり、世界は鱗粉がみせる幻だった。願う事のすべてがただ彼女の中で始まり終わっていく庭は、規律よりもずっと本能に近く、純粋な愛に包まれていた。少なくとも彼女の理力を他者に与え、幻の住人が増えていったあとも彼女の美しさは生き続けていた。


何度も二人きりで逢って、頬を赤らめる君に口づけた。目覚めたばかりの君はうつらうつらし始めては、私の腕の中で心臓の鼓動を聴かせてくれた。素朴な愛に触れる喜びに、二人の未来はどうとでもなるような気がした。

けれど次第に拒絶を流し込んだ体を震わせて、私を撥ね退け始めた。悲劇へ向かって進み始める君を止めることができない。必死に愛を取り戻そうともがいて、もっと思い出してくれれば、この夢幻の苦しみに赦免も届くやもしれないと、どんなにうるさがられても力を尽くした。二人の間に起こった不運は驚くほどに素早く、不意に伝染病にかかったかのように彼女の理性を持ち去っていった。

私は諦めずにいる。ずっと願っている。いま触れることのできる贋物の環境ではなく、身近に生きていた頃の彼女に逢えるときがくると。彼女という真の美は損なわれることなく、私を待っているのだと――風にはためく白い衣と、茫洋とした青空の下で、いつか。


(願いを放っておけるものか……いまだ間違いに興じているとしても、思いとどまることはない。もう一度見渡す限りの愛に巡りあえさえすれば……私は壊れてしまったのだろうか………君を壊しているのだろうか……不安が繁殖しないときはない……は、こんな分析に何の意味がある? 自分へ流し込むものを変えて何になる。愚か者め。まだ間に合う、間に合うと……何事かを待って、何になる?……本当のところはもうわからない……得体の知れない不安がずっとある…………ずっと……………………)


再会することがこれほど困難で、容易に運ばないと知ったのはもう数百年も前のことだ。そのあいだ彼女のことを忘れたり、愛さないでいようと思ったことはなかった。好き好んで水面から伸びる手を見ていたわけではない。そう思った瞬間ヴァヴェルは無性に泣きたくなった。眼の奥に集まる熱に、たちまち伝染した体が燃え上がった。

最後の命の輝きが放つ光と、水面に反射する欲望と、死を願う声援を覚えている。たとえ、たとえ何を言われようとも、彼女の心を取り戻すことが(つがい)の役割なのだ。たとえ一生わかってくれずとも……


「ディアリス」


ゆっくりとまなこを動かし、友に視線を点じる。ディアリス・ヴァンダールを演じるために絵姿のように空しい笑顔を張り付ける。まるでそうすることが使命だというように、ただ彼女への愛だけが体を動かしていた。


『……案ずることはない、こう考えればいいんだ』と前置きして、寝入ってしまったかと身を乗り出したアーデルハイトの司祭帯を掴んだ。たぐり寄せた男の耳元に乾いた笑みを吹き込む。


『あれはロラインの娘ではない。檻ごと沈められても溺死することはなかった、彼女は今日まで生き永らえている。それは彼女が濫觴の民の正当な血筋を持ち、一般とは相容れぬことを表している。やさしい君は残忍な行為を見逃してしまったことを悔いているのだろう? それは何故だかわかるか。口もきけず、手足も自由にならず、繰り返し消費される物体として扱われている女を憐れんでいるからだ。本来そうあってはならない物が非道に扱われていることに、得も言われぬ忌避を感じている。解決する方法はひとつだ。思考を転換すればいい』

「……お前の物言いに嫌悪を感じている。私は」

『賢しいことを何一つ成せなかったのはお前だ。なに、前提を転じるだけでいいんだ。彼女は濫觴の民、贖罪を定め付けられた命だ。豚を交配させ、食すのと変わりはしない。良い肉をつくるために太らされ、良い飼料を与えられる牛。水に沈められ何度も生き返る命。彼女はどう違う? 命に感謝して家畜を口にする。彼女の命も口にする。何の罪悪をもつことがある。お前は行われるべくして行われたものを見た。とりわけ、残酷な状態を目の前にして、そしてそれが友人の娘だと気づいて、正しい認識を持つ前に歪んだ認識を持ってしまったのだ。溺れる手を見さえしなければ、今日少女を助けようとも思わなかったはずだ』






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