362 肉料理:----・------(154)
鼓舞に聴こえ過ぎないように努めて平坦に言うと、アーデルハイトは言葉を吟味してから軽い苦みを帯びた表情をした。ぴったりと合わさった歯列と桃色の歯茎が一瞬覗き、退いた。
「…………ディアリス、何故先行したのだ。私すら疑っていたか」
『すべてをだ。相手は龍下なのだぞ、何を言おうと虚言、妄言と決めつけられては革命はならない。押し通さねば今日死んでいたのは私だった。はじめから終わりまで怪物とならねばならなかったのだ……』
哀れに吐いた偽りは静けさの中に溶けた。ディアリス・ヴァンダールが覚悟など持っていたかは知るよしもない。だが、地肌に隠したものを曝け出すと、途端に体は透明になって心が露わになるのだと多くの人は思いこむ。
とりわけ、ヴァンダールが仕掛けた公然の追及を一つの嗜虐として見るのではなく、まず俯瞰して全体を丹念に把握しようと努めるアーデルハイトのような男には有効な手段といえる。嗜虐行為が実は精密な裏付けによって確証された糾弾であり、さらに私の最愛がいさえすれば、アクエレイルが抱える大きな課題を一挙に解決し、経済の礎石を大きく底上げすることができるという事を数値で証明してみせれば、彼のような男はそれを悪と断じることはできなくなる。
ディアリス・ヴァンダールとアーデルハイト・ホルミスは、互いに価値観の不一致からこれまで和解し難く対立しあっていた。
だがここにいるのはディアリスの器を利用したヴァヴェルであり、彼が尊敬していた龍下そのものだ。どんなことを考え、どんなものを切り捨て、どんな条件で心を動かしているか、大凡調べはついていた。
アーデルハイトはシュナフと連携し、理術に頼らない"医術"の研究を開始していた。その結果教会の教義を否認することになろうと、もはや生活の中で理術を通用させるべきではないとした新しい秩序のために情熱を傾けていた。医術は確かに"これからの技術"である。そのことに対して否定はない。それどころか研究所に執行官を潜入させ、送られてくる報告書をいつも楽しく読み込んでいた。
アーデルハイトとシュナフも大主教の職に就き、広大な領地を治めている。国の未来に目を向けて、一方の秩序のために、もう一方の秩序を見捨てていたことは責めるようなことではない。執行官を使い、さらに研究が発展するようにさまざまな側面から支援を送っていた。何故なら最初の一歩を踏み出した勇気を称賛していたからだ。彼らは聖職者だからこそ、理力の有無によって格を維持し、生計を立てていく環境が"差別"の根であるとはっきりと知っていたのだ。社会発展のうえで中心的意義を持ち続ける"理力"が問題そのものであると理解し、少数の理力保持者による大衆の隷属は無法だと思うにいたった。
いつか世界は変革を迎えたかも知れない。だがこれは、まだ研究という一側面に過ぎなかった。教会という理力主義の起源に切り込むという深い矛盾に、勝敗を決するのか否か論議さえ始まっていない。
眼前の男は今、打ちひしがれているだろう。志を共にしてきたシュナフが、治療をやり遂げることができずに最も見逃してはならない命を取りこぼしてしまった。理力ならば容易く治せたはずの傷が、何故か――私が事前に仕込んでいた妨害石によって――治療する事ができなかったことは計算の内だったことは知らずに。民衆は尊い男の落命に勝敗を決せずにはいられないだろう。シュナフは敗者となって退座していく、助命の手は差し出してやるつもりだが。
ではアーデルハイトはどうなるか。共同研究していたことは公にはなっていない。だからこそ、彼が正確に何を考えているか教え、満足させることができれば心を自在にすることが出来る。
我々は同じ痛みを知る者なのだと、アーデルハイトはまもなくそのことを意識するに至った。アーデルハイトは静寂と同調し、本当に言いたかったことを話し始める。廊下の向こうに人の気配はなく、徐々に徐々に精神だけで向かい合う二人を妨げる者はいない。
「……覚えているか。聖職者選挙の不正が発覚し、身分と特権の制度の見直しを迫られていた頃のことだ。私はロラインに敵対する態度を取りながら、利益を守ろうとする反教会主義に傾倒していると見せかけた。もはやたんに教会を嫌うといった枠組みを踏み越えた反教会主義そのものを庇いきれなくなってきていた。私は断罪を可能にするために非公式にロラインを訪ねた。そこで一人の子供を見た」
『……濫觴の民の子、か』
「その時は勿論そうだとは思わなかった。見目の美しいただの子供だと………だが、ほんの少し顔を合わせただけだが強烈な印象があったのだ。今思えばあの邸は彼女の為につくられていた。この世にあるどんな不幸も遠ざけておきたかったのだろう……彼女の前では誰もが引き立て役となる、一瞬でそう理解した」
微笑がこぼれる。それはそうだと心から同意する。




