359 肉料理:----・------(151)
アーデルハイトはディアリスが満足しており、夢の話をこれ以上する気がないことに気づいていなかった。巧みな口先と見せ掛け、自慰に巻き込んでいるだけということに気づかない。言葉の端に残された謎をほどくような面持ちで、深く考えているらしいアーデルハイトがゆっくりと顔をあげた。
「いい……匂い、と言ったか。やはり違和感がぬぐえない。患者の前では決して否定しなかったが、子供の時分から忌避していた薬草の臭いに似ていると言っていた。忘れたか」
『そうだったかな?』
ディアリスは"ディアリス"の事を想像したが、初めて逢った時の事やそれ以降の事も思い出せなかった。大主教の職位についた男なのだから面識もあり、それなりに人となりも理解しているが顔だけがぼんやりとしており、当然趣向など把握していない。アーデルハイトの怪訝の瞳の中にうつる顔を見上げて、あぁこれが今の自分の顔かと意識の配線を組み替える。
『私に籠絡されるのが怖いか』
「お前の発言を買うつもりはない。記憶はあるか」
ディアリスは笑った。この笑顔はアーデルハイトの認識―――ディアリスがいかに小賢しく機転の利く男であるという軽蔑と尊敬の入り混じった認識に相違はなかった。
『目覚めていた時の事はすべて覚えている。いいか、これは泣きついて嘆願する前の準備でも、不憫を演じる為の時間稼ぎでもない。ましてやこれから君を金に靡くように説得しようとも、罪をなすりつけようとしている訳でもないんだ。古い友よ、微かでも友情が残っているなら、これから言うことを言葉通りに捉えてくれ。私は正しい事をした。神の褒美を独占していた男をこの手で嬲った。この上なく楽しかったことも否定しない』
「事実とは違う」
『ふふ、子供を殺してみせた事か? それとも公衆の面前で断罪したことを咎めようというのかな。聞き取りにくいとはいえ、人払いをしてくれないか。君の為に。なぁ君達もそう思うだろう』
室内で作業にあたる若者たちは私という負傷者に対する庇護者を演じようとしているが、寝台に横たわる大主教を無法者とは見ず、巨悪に立ち向かった強靭な魂だと認識している。隠そうとしているが精彩を欠いた動きや、すぐに逸らされる視線に余計な意図が滲んでいる。龍下の手から少女を救ったことに敬意を払い、勇気を称えたい気持ちがあるのだ。だが、敬愛していた龍下へ向けていた気持ちが幻想となりかけていることに動揺し、アーデルハイトに心を寄せることもできないでいる。所詮この男がどんなに敬虔で、市民の権利を守らんとする無私の者であろうと、あの少女の魂には何ら関係がないということを察知している。小者は鼻が利く。真実まで一番早く必ず辿り着くのはこうした豚の群れだ。
「第三者が介在しない場はつくらない。振動石の周波数は記録している」
『証言集めというわけか。だから緊張しているわけか……私が若者を唆し、君を亡き者にすると怖れているな…? そこにいる治癒者の腕章をつけた彼は君が選んだのか? 油の臭いが漏れているぞ』
聴こえていない筈の男が動揺する。アーデルハイトは振り返らなかったが、微かに頬が痙攣した。侮蔑の感情を押さえつけ、思考を働かせている真っ黒い瞳は私を射抜いたままだ。
『腰帯に挟んだ短剣にリシナスを塗っているな。袖口の針にはゼリド、どちらも猛毒だ。直接塗り込めば甘い匂いがするが一工夫すれば無臭にできる。だがその一工夫をした後に腰袋に触れたな。急ぐあまり、細部に注意を払うことを怠った。これだから生半可な者は困るな? そうだろうアーデル。布がたゆまぬように気をつけているようだが、指摘されて口元が強張っている。だから言ったろう、人払いをしろと。君の立場を悪くしたくはなかった』
アーデルハイトは切り返した。
「お前は人を動かし、転がすことに長けている。お前はおそらく」とまで言いかけ、ディアリスが笑みを急に消したことに驚き、アーデルハイトは言葉を忘れてしまった。
『気をつけろ。証言台に立っているさまを思い浮かべてから口を開け。記録されているのは私とお前だ』
強く握りしめられていた拳が解けるまで少し時間を要した。会話が再開されるまで誰一人音を発しようとしなかった。
「全員、石を置いて退室しろ」
治療器具の置かれた台に、若者たちの人数分だけ振動石が並んだ。ディアリスは退室する若者に小さく手をふった。そのあいだ枕元に立っていた潔癖な男は身じろぎ一つしない。
最後に若い女がねっとりとした気遣いの視線をアーデルハイトの背中に張りつけて退室したのを見てから、そっと友人に椅子を勧める。
『涙の代わりに涙管から血を流すのが男だ。すまない、アーデル。ただ二人で互いの肉を切り捌いて屈託のない話をしたかった。"さばく"のは男の仕事だろう』




