357 肉料理:----・------(149)
『今でこそ有産階級は財を成した者、いわゆる一握りの上位者によって構成されているが、本来は商工業を生業としていた町民を指すものだった。街はどこも幸福に満ちていて、誰もが自信をもって隣人と付き合っていた……』
思考は銀色に輝きながら流れた。アクエレ―レの街並みは四つ切れになり、そのあと細切れになった。残骸はふわふわと浮かんで天蓋の瀟洒な図柄に触れると、今度はアクエレイル風やホルミス風の現代的な様式に変化して目を楽しませた。枕元にぱらぱらと降ってくる石畳の破片は、人生における喪失を語るかのように儚い。
眼前に広がっている光景はヴァヴェルの頭蓋の中を開けて、さらにぶちまけたものだったが、こんがりと炒められて冷水に浸された残滓は愛という余韻を残し、激しく心を揺さぶるものに変じていた。こうして何度でも咀嚼したいとおもうほどに。
大事な思い出を崩壊させ、瞬間何もかもを凌駕して彼女に求められていたことは、この先どのような状況になっても―――そう、ディアリス・ヴァンダールという半端な男の体で過ごすことになる苦悩でさえ瞬時にかき消す幸福だった。ヴァヴェルは喜びのあまり目を細めて、愛する者の名を口腔で舐め回した。
幻の中にすっと背筋を伸ばした人影が降り立って、ディアリスの目は彼女に吸い付いた。
『あぁ……』
―――リリィ、早く、殺したい……
熱い気持ちを吐きだすと、幻を遮って覗き込んできたアーデルハイトがディアリスの瞼と頬に指を合わせ、瞼を押し上げた。
『……少し寒いな。暖炉をつけてくれないか、アーデルハイト』
男はまだ無言だ。それどころかこめかみに力を入れたまま口角を下げている。微笑しながら見守っていると、責め句を閃く前に自制心を働かせた男はふっと肩の力を抜いた。はぁ、と神経質な溜息。
『聞いているか? 仇敵』
「黙れ」
呼びかけると片手を払われた。そばを離れていくので首を伸ばせるだけ伸ばすと、戸口に向かう青年を呼び止めて何かを伝達している。体で隠され、どちらの口も読めなかった。
(賢いな……さて、どのくらい経ったか……)
室内に時計は見当たらず、窓には分厚い布が張られて外を窺い知ることはできない。数日経過していると言われても驚きはしないが、アーデルハイト・ホルミス大主教がここに留まり、治療に就いている事からまだ数時間も経っていないということがわかる。
ディアリスの目覚めにより慌ただしく動き始めた従者らは誰も目を合わせようとせず無言で作業に没頭しようとしていた。全員からあからさまな距離を置かれている為、全身から「こわくて貴方の言いなりになります」と言われているようで面白かった。
ひとまず暖炉のことは諦め、深呼吸を試みた。顔半分を覆う鋲付きの拘束具はほとんどの吐息を内側に戻したが、ディアリスは手間に感じることはなかった。牛皮の深みのある香りを吸いこみ、肺に滞留させる。呼吸を止めておく方法は例え器が異なっても変わることはなく、若返ったことに却って助けられていた。唇の真上に開いた空気孔から細く息を吐きだす。平時の半分程度の肺活量でも容易に寛ぐことができた。
「気を違えたふりをしても無駄だ。償いはしてもらう」
戻って来た男は、明るく輝く淡黄色の石を顔の前でかざし「お前の手にも握らせてある」と、音を伝達する石を振って見せた。自分の分は式典服の裏にしまって続ける「あくまで治療に不可欠だから渡したのだ。お前の不平不満を延々と聞くためではない」
『弁えよう』
拘束具越しに吐く音はくぐもっているが、少なくともアーデルハイトの耳には不足なく達しているようだ。「どうだかな……」と、納得しない男を見上げながら、てのひらの振動石に爪を立てる。ぐっと二の腕の筋肉が盛り上がって新しい体をひと時楽しむ。
『それで、私の処遇は決まったか?』
「何も教えることはない。時間や現時点の状況もだ。他の者から聴くことも、口も読む事も禁じる」
『時計は引き戸の中か。意匠を凝らした特別な品なんだが、処分してはいないな? それに……取り外す時に火傷をしなかったか?』
「なんだと?」
『君も知っているだろう。人を欺いた者は熱した銀の棒で終生消えぬ咎を刻まれる……ほら見てみろ。彼らの手は震えている。疑念に苛まれても時間の法則は変わらないというのに……確かめてやったらどうだ、どうして汗をかいているのか』
「やめろ」
アーデルハイトが振り返り、手を止めている若者たちに治癒術の光をまとわせた。怪我もしていない為、光は周囲を漂って再びアーデルハイトの元に戻るだけだったが、そうした単純な判定が彼らの緊張を解いた。最後に作業の再開を指示する。振動石を袖机に置いて、何か付け加えたようだったが定かではない。だが付き合いは長いため、ある程度予測することができる。




