356 肉料理:----・------(148)
空間が引き裂かれた。
ただ一人の女に忠誠を誓った世界が、己のはらわたを抉りだすかのよう身を切っていると知れた時、ヴァヴェルは目端に大急ぎで家屋に戻る住人の姿を捉えた。別の路地では身を揉みあって逃げ惑う子供が地面の一角に生まれた亀裂に足を取られ、前のめりに倒れた。石畳のへりを掴み、喉を鳴らして叫んでいる。「いやだ!」
やがて聞き覚えのある哀訴が聴こえてきた。大きく開けた口と絶望の表情から片時も目を離さずに、私は微笑んでいた。
「君は本当に……自傷が好きだ」
雷鳴を思わせる轟音が高まって、亀裂は四方からヴァヴェルの方に向けて走ってくる。理術による争いを幾度も経験してきたヴァヴェルは、術者の喉を潰す以外の手段は子供だましであると思っている。術を発動するには口頭による詠唱が必要な為、どうしても発声から術式の完成までに時間を要してしまう。目の前の相手が卓越した術者であってもそうでなくとも、先ずもって術での防衛を講じるよりも、炉から火掻き棒を取り出して首を潰してしまう方が確かなのだ。
ここは願望の叶う庭だ。女が振るうことのできぬ重さの物でも羽のように軽くなる。そしてわざわざ子供の泣き叫ぶさまを再現する必要もない。だというのに、世界はまだ冷え込んでいた。青空の下であってもロライン領の大雪の日のように冷たい。
彼女は火掻き棒を想像しなかった。真っ赤に焼けた火掻き棒を私に叩きつけ、じゅっと焼ける音を聴くことも、己の手首がしなる音を聴くこともなかった。だが子供の泣き声を想像し、亀裂に飲まれていく街並みや市民に対して罪悪感を投影させている。相手の喉に短剣を向けながら、もう一方の手では己の腹を引き裂いている。そうする事でしか、世界を崩壊させることが苦しいというのだろう。これが彼女の覚悟だというのだろうか。ロラインが有する静寂の地や、かつて共に暮らしたアクエレ―レを壊し、私へ向き合うための決意表明なのだろうか。
やがてヴァヴェルの足元は崩落し、後ろ向きに倒れた。背中を受け止めるはずの塀はなく、周囲の瓦礫と共に断崖に殺到する。
落ちる瞬間、リリィを抱いていた両腕を開いた。彼女にこれ以上の悲哀を押しつけるつもりはなく、腕を平行に伸ばしたまま遠く離れていく美しい魂を眺めた。リリィもそうされる事を見計らっていたようだった。石畳ひとつ分、自分だけの堅固な足場にすくと立ったまま落下する私を見下ろしている。その間、表情に悲しみも怒りも浮かんでいなかった。
雲もない青空を背景に私を見下ろすリリィは、まだ私の声を聴いているとはっきりわかった。目が合っている。
背中に川はあるだろうか。それとも私を包むのは暗闇だろうか。目の前が完全に暗くなる前に彼女の声が響いた。
「……貴方は思い出さなくてはいけないの。そうしなければ、私は貴方と一生向き合うことはないわ……」
「思い出す? そう物事を難解にせずに、君の口を使うのはどうだろう」
「これは罰よ」
「何の?」
「私と貴方の」
「いつの?……いや、そうか。だから此処に連れてきたんだな。ここで起こったことか。良いね、楽しいよ」
「……私はそのことで、心を……割った。割らなければ耐えられなかった……その事を長年……口に……今もまだ、声……に、っ…できないでいる」
「リリィ?――――」声色が揺れている。涙をふきとるために在る指が震え、彼女を求めようと口が動く。音になる前に雷鳴がまた轟いて、理術の発動を阻害した。
「私の中にはいってこないで……」
水飛沫があがる。川の中から光を見上げるも水面は抵抗し、圧力をかけてくる。水をかきわけて伸ばした手が、先端から霧散していく。時間切れだ。散り散りになっていく光を再び集中するように念じても効果はなかった。世界の全てを司る彼女が私の存在を拒んでいる。ようやく、そうする事ができる事実を飲み込み、行動するに至った。決断に何百年を要したのか、その事に彼女が傷ついていない事を祈る。
肺が潰れ、こめかみが痛んだ。ごぼりと空気を吐きだすと私を侵そうとする水が入り込んできた。私は苦しむことはなかった。
(………また逢いにくる……愛しているよ)
声はもう還らなかったが、心の中でもう一度愛していると言った。目を閉じる。
―
そして、目を開ける。
真四角に切り取られた天井がある。いや、これは寝台についている天蓋だ。
口が渇いているし、目に潤いもない。瞬きをせぬように目を見開き、そばに立つ男の身長を目測する。そこから出入り口までの距離を算出した。気取られぬように室内の方々に視線を走らせ、人数と体内の理力量の測定も済ませる。誰も私の方を見ていなかったことが幸いし、種族や年齢、ホルミス領での職位なども粗方予測をつけることができた。いざというときは強引に突破しても問題はないが、と心に留めてから、ディアリス・ヴァンダールは口を開いた。




