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リリィ 思いつくままに書きとめたささやかな覚書と一切の崩壊。無力な愛、ひとつの不幸、ただ愛を愛とだけ欲したある価値の概念  作者: 夜行(やこう)


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354 肉料理:----・------(146)

「いいえ…!」

「遮るな……ふふ、可愛いリリィ、これが混乱ではないならなんだという…………あぁ、そうか。君は分け与えるばかりで、施しを授かる事に慣れていない。だから自分に向けられた愛情を受け取ろうとしないのか。充分愛してきたつもりだけど、もっと必要なんだね」

「……」

「何かいうことはあるかな」

「……私にも覚悟があるわ」

「私を殺す覚悟が?――――興が乗るじゃないか」


言葉が互いの魂を掠めた。その瞬間、灰色の雲は猛烈な勢いで流れた。山は地平に沈み、轟音は地割れとなって湖に侵入する。衝撃は水柱を生み、湖は瞬く間に干上がっていった。

ロラインの敷地が一挙に塗り替えられていく。これは彼女の心情の変化を表している。もしこれが怒りの感情だとすれば、なんて品の良い表現方法だろうか。まるで豪華な額縁の鏡を割るように、破壊が作品として成り立っている。

私が人を害したり、国を亡ぼしたりする事とは込められた趣が異なるのだ。慈しみと愛を信条とする彼女が、自身が一番好む光景を壊し、体を支えられることなく、青褪めることもなく立っている。頑なに合わされた唇も、棘のある言葉も、やはり彼女自身が美しい花だという証左だった。どう足掻こうと枠の中に収まるしかない女に奥深く入り込んでいく感覚が、掌を火照らせる。汗を確かめるように指先を擦ると、喜びに震えていることに気づく。


「壮麗だ……君に似合っている」


天から差し入る陽射しは青空を連れて戻った。頂点は海を逆さにしたように深い藍色で、爪先立ちになれば真っ逆さまに溺れることができそうだ。


ヴァヴェルが美しい光景を気晴らしに楽しんでいる頃、リリィは瞼を閉じる。目を開けると、邸宅や湖の代わりに、二人の魂は旧い街並みに立っていた。


「アクエレ―レ……私達が暮らしていた場所よ」


白壁と白い石畳に覆われた都市は、全体が一個の美術品の様相を呈している。

感嘆するヴァヴェルのそばを荷物を両手で抱えもった子供が駆けていった。最初音もなく横合いから飛び出してきた子供に口を「わぁ」と綻ばせた男は、石畳をたたく幼い足音に耳を澄ませた。自分の踵で地面を擦ってみると、砂が摩擦する何とも面映ゆい音を聴く。

視界の端で仕事を終えた豚飼いが酒場に入っていく。木杯をぶつけあう音と笑い声が続いて、思わず微笑みがうつってしまった。どこもかしこも陽気で清々しく、道端には浮浪者の姿もなかった。清潔で汚物の臭いもしないのだ。現実の街に感じる諦観が、理想的な光景をみて息を吹き返すのを感じた。やはり都市は、人が生きる場所はこのように美しく清潔であるべきなのだ。


この頃の人口に対する幸福度は高く、濃密だった。些事にこだわらない明るい気性の民とともに、地上の楽園に生きているという自負が都市全体を包んでいた。杯に満ちた酒のなかにわざと毒を含める者も、差し出がましく権力にしがみつこうという者も台頭する前であり、暗殺者が暗中飛躍する姿をみることもなかったのだ。裏を返せば微笑を含んで誰彼構わず唆してまわることは容易く、罪の思いを感じることなく、ばかげた社交の世界を好きに泳ぐことができた。いつだって世界は私の手に有って、リリィほど私の対極にあり美しく見せるものもなかった。


ヴァヴェルは数歩、押し出されるように道の端まで歩いた。石を積み上げた短い塀に手をつき、眼下に流れるマーニュ川を上流から下流まで隅々眺めた。


「ここからの眺めがとても好きだったんだ………君に相談したいことがあると言われて、ここで待ち合わせたことを覚えているかな。君は海のような宝石、青い石を耳飾りにしていた。息を切らしている君の耳元で、石が揺れて……昨日の事のように思い出せるよ」

「………」

「君は何か言いかけたが直ぐに噤んでしまった。みるみる顔は真っ赤になって、心配になって近寄ると背中を向けられてしまった。最初から少し体を斜めにして立っていたね。どうしたものかと考えあぐねていると、君は駆けて行ってしまった」

「………」

「すぐに追いついた私になんて言ったか覚えている? ただ貴方にお目に掛かりたかっただけ、と君は私を見上げて言うんだ。率直な響きだった」

「………」


家の仕事や国家に対する奉仕に赴いた日々が、今も双の目に浮かぶ。気持ちが底から呼び起されて私はあの日の様に後ろに控えているリリィに近寄る。彼女は雪ほどに白い肌を隠し、ほっそりとした体に息を潜めて立っている。伸ばした手は二の腕に届いて、彼女を構成する淡い光が掬い上げる端から零れ落ちた。


あの日と異なるのは顔を上げた君が「なに」と氷のような声で呟いたことだ。

「どうしてここに?」と耳元で囁く。唇で髪を少し食んで、頭皮をほんのりと引っ張る。彼女の唇はまだかたく結ばれている。

多弁が自分に似合わぬことを、とうとう弁えたのかも知れなかった。






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