351 肉料理:----・------(143)
生娘のように首を振るだけだった女から得体の知れない強さが発せられる。草原に座り、そこらの草で花冠を編むことしかできないようなか弱い女が、自分の知らない激情に満たされていることにヴァヴェルの肌に悪寒が走った。苛立ちと居心地の悪さを混ぜ返した気持ちに支配される。
彼女は明確に、"私の知り得ないこと"を知っている。
彼女を構成する光の中に、私が把握しえない物が存在することは許されるだろうかと考えて、すぐに鼻で笑った。
(今度はどの男の影響かな……)
ヴァヴェルは知っていた。彼女がもつ豊かな感受性は、こと男によって育まれる。堅固な表情と張り詰めた空気で武装している顔や体のなかに、どうにかして女を手籠めにしようという男の卑俗な思惑が詰めこまれ、そうした愚物に感化されて要らぬ勇気を奮おうとしているのだ。彼女はいつもそうだ。好んで善性の海に飛び込み、窮乏にあえぐ者達とともに溺れることを選んでしまう。不幸で、貧しく、暗く、つまらぬ生き物に自分を与えて、一時的な幸福をみせて何になると私は思う。そうした過ちを幾度も矯正して、正しい物だけが彼女の目に映るように障害を排除してやるのが男の役目だというのに、世の男共は彼女を前にするともうおしまいになってしまう。私以外の男は大抵化け物になって死んでいく。
今また誰かの為に瞳に決意を滾らせ、彼女は私を見つめる。私の動揺か、「教えてくれ」という一言を待っているのだろう。だが宛がわれた言葉など吐いてやる気はなかった。
私がこの時、素直に話を傾聴する姿勢をみせれば彼女は胸の内を吐露したかもしれなかった。
「ヴァヴェル…………貴方の転生は、肉体と魂の強力な結びつきを解くものでしょう。私は見たの……貴方達の諍いを"私"の目が見ていた。貴方の魂が器から器へ飛翔する時、すこし怯えていたの」
「怯える? 私の魂が?」
「えぇ」といって彼女は両手で私の頬を挟むと、膝立ちになって理力光を操った。理力によって形づくられた体は甘い虚しさを感じさせながら、そうあれと願う形に変じていく。額の傷や床を汚した血はすっかりと消えて、手のひらに口づけをおとす私と蒼白な顔をする女が向かい合う。口づけは拒まれることはなかった。なかったのだ。
「貴方がその体の中に入った時、抱きとめるはずの器は貴方の魂を弾こうとしていた。成功はしなかったけれど、"その人"は自分の器を守る為に抵抗してみせたの。意識的に行われたことか、本能的な拒絶だったのかはわからない。でもどちらでもいいの。だって自分の体が入れ替わってしまうんだもの。人と人の間に引かれた不可侵の領域を侵されて……とても非道徳な行為だと感じたわ」
非道徳と言った。あの彼女がだ。これは覚醒を予感させた。急場に突然輝きだした宝石に、今すぐに舌を這わせて貪り食ってしまいたくなったが、愛欲は口腔に収めたまま彼女の望み通りに論及に付き従うことを選んだ。
「まだわかっていないようだね。君が同じ器で転生を繰り返すのとは違って、私の転生には別の器が必要なんだよ。丁度いい体がなかなか無いと思う間は、つまらない体に留まっているし、元の私の生き様と互角の勝負という器はなかなかいないんだ。老いてしまっても使えないから――あぁ、前の体の様に負傷してしまっても使えない。だから若い体に乗り換える必要があった。良い器が手に入ったから自由にしているだけなんだよ。これは極めて自然なことだ」
「自然…?」
瞳が揺れ動く。宝石を陽の光にかざして透きとおる光を浴びるように私は目を細めた。
「朝目覚め、黙想し、時課に勤しみ、食前酒を選び、皿に好きな野菜を盛って奉仕に対する恵みを得る。繰り返す営みの前に行動の説明は必要ないだろう? 私の転生もまた生きることと同義なんだ。ゆえに、私の道徳が、"非道徳"に成り得るかは君の倫理基準に因って判断しているだけだとわかるね? そして私の基準では、道徳的な生存行為ということになる。リリィ。認識は立場によって覆る。なら流動的な思念に何の意味がある。自己の世界を確立させるためだろう? 私達は思考する世界に生きている。けれど、思うだけでは暴力はなくならない。搾取に対して喉が枯れる程叫んでも何にもならない。裁判や法律が何故あるのか、それは異なるすべての思考をひとつの枠にまとめなければ共同社会に生きる事ができないからだ。言葉だけで理術は向けられないか? 振り上げられた拳は懇願すればおさめてもらえるだろうか。いいや、悪の前に言葉は何の意味もない。君は雑踏から必死に声をあげるが、他者を虐げることをきらって遠巻きにすることしかしない。だから弱者は周囲にはべるが、正道をゆく者達に簡単に押し潰されてしまう。正道は行動を起こした者だけが通る事のできる道だ。君はそうした場所に立つ責任から逃れている」




