348 肉料理:----・------(140)
いくら仲を深めようとも、個々の道を歩む私達は己の気持ちを正確に伝えることはできなかった。伝えようと試みることもなく、何事も手控えして、表面上の恋を描くことに終始していた。
私は言葉を操ることが得意だった。地面を這う虫を潰せば体液が出るといった常識と同じく、称賛の言葉には笑顔が返り、頼りにすれば絆が生まれ、秘密をつくれば距離が縮まり、罪を被ってやれば後ろめたさが生まれることを知っていた。言葉は交友関係を円滑に進めるための変幻自在の武器であり、言葉によって制約されながら生きる人間が必ず有している技能だった。その武器を実践的に活用することに躊躇いはなかった。
意に反したことも平気で口にするため、彼女の言う「まやかし」という指摘は的を射ていた。だがそう判ぜられる彼女もまた、秩序を保つための言い繕いをするのだから本性は同じなのだ。
人の陰にこもり、早く終わらせたいが誰もやろうとしない事柄を率先して取り組む純粋な彼女は、誰かの心に尽くすことが得意で、自分のために精神を尽くすことは不得手だった。誰かの為に動きたい、誰かの役に立ちたいという気持ちが強い善人ほど御しやすいものはない。彼女はそうした典型ともいえる性格をしていたが、互いに善行で応答しあうことを相互の愛というのなら、私と彼女はまさに「女を守り、愛する男」と「男に守られ、愛される女」の概念そのものになることができた。
私達は想いを告げ合う前から結婚を模した付き合いをしていた。私達は多くの者より優れていたので、おおよそ秀でているという意味でも互いの命の釣り合いがとれていた。
しかし今、私に意味のない拒絶を返す彼女はいわば善行の支流、暴力という濁流を作ることに熱心だ。愛情を拒絶することは冷酷で、両者に痛みが生まれる。その冷酷さを自己から切り離し、痛みを緩和したいが為に、ゆるい拒絶のみを演じている。なんと後ろ向きな善行だ。もはや暴力と化した善意で私を殴ろうというのだ。この分裂は実に寛容に反するものだった。
その行為が憐憫を生む。彼女は信念がとても弱い。痛みをきらって、真綿で首を絞めていく。真綿を掴む手は罪を犯していないとでも言いたげだ。果たしてそれでいいのだろうか。傷つけあい、相手を支配することで上位者がどちらなのかを認識する。それが生き物の繁栄に定められた確認行為だ。ならば人も争わねばならないだろう。
彼女の博愛と酷薄さは不可分の関係にある。彼女自身そうした広範囲の愛が、偽りを生みだしていることは、救いきれぬ命を抱きながら感じていたはずだ。愛と憐憫が表裏なように、善と偽善もまた表裏だ。私は絶望に沈む彼女の為に、好みの男を演じてやった。よく物を考えすぎて自分の意志すら曲げてしまう彼女にとって、強大な自尊心を抱いた男は物珍しくうつり、張り詰めた気分をのんびりさせたり、道を踏み迷った時に後悔もほどほどに元の道に引っ張り上げる助言は魅力的にうつったことだろう。
私に残る美しい記憶の一部には、笑顔を浮かべた君がいる。
彼女は手紙を書いていた。日々届けられる何十通といった手紙に目を通し、すべての返信を書く道徳的な時間に、私達は互いに言葉を掛けず、まぎれもなくそばにいるというのに顔を俯けながら過ごしていた。暖炉に向かい合っていた私は、薪の爆ぜる音を合図に本を閉じた。
『そろそろ手を休めたらどうかな。君の時間を割くに値する手紙があるようには思えないけど……』
『送って下さっただけで価値はあるわ』
『そう。たとえば誰からの手紙が灰になるよりも価値があったのかな』
『あ! だめよ、私信なのだから読んではだめ。返して……あっ、燃やさないで!』
『……これから毎日貴女を思い描いて、私の心は貴女のもの……確かに私信だ』
『かえして』
『晩餐の誘い文句もある。私に何も言う気はなかった?』
『どうして貴方に言う必要があるの』
『明日の予定を忘れてしまった?』
『慈悲の期限の最終日だもの。朝から裁判室にこもりきりよ』
『そのあと』
『巡礼者といっしょに食事をして、眠るわ』
『私のところには』
『あら、子守歌が必要?』
『君が必要』
『……貴方とはこれきりよ。眠って、目が醒めたら貴方は全部忘れているわ。私のことも、私へ感じているすべてを忘れる。魅力的だなんていうけれど、そんなことないって気づくわ』
『私は聖女様や天使様をお迎えしたい訳じゃない。何度でも君に夢中になれるなら、忘れてもいい。必ず君を求める自信があるんだ』
『貴方は……やがて国も支配しそうだわ。毎晩ここに来なくても、もっとやることがあるでしょう』
『野心がないからね。でもそうだな……君がやれというのなら喜んで玉座にも座る。君も隣にいてくれるならね』




