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リリィ 思いつくままに書きとめたささやかな覚書と一切の崩壊。無力な愛、ひとつの不幸、ただ愛を愛とだけ欲したある価値の概念  作者: 夜行(やこう)


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346 肉料理:----・------(138)

疲弊していた。蓄積した数千年分の疲労は肉体を変じても付きまとってくる。

私は知っていた。これは精神的な不治の病だと。事実、時折鏡を見ても自分が何者であったのか思い出せなくなるときがあった。差し掛かる光の具合で私の顔は男にも女にも見えた。他人の体を渡り、好きに演じてきた不都合が、ふとした瞬間に摘まみだされ私の眼前に並べられる。


長細い食卓に一人腰かけ、眼前に出される皿を見つめる。等間隔に置かれた燭台の灯が揺らめき、食事を待つ私の真後ろから腕が一本伸びてくる。給仕の真似事をしているのは、白い祭服に首から赤い帯を垂らした老人だ。彼は丸い皿を私の前に置いた。龍下と呼ばれ続けた老いた体が横たわっている。白い祭服と首から下げた赤い帯はぼろ布のように引き裂かれ、散り散りとなっている。それだけではない、正面から衝撃を受けた老人の皮膚はかき混ぜた卵のように柔く水っぽいものに変化している。かろうじて人の形を留めている全身は、赤く染まっていない箇所はないほどだった。饗宴に相応しいそそる光景だったことは確かだが、私はもう官能的な血の色には魅かれなかった。あぁ、またこれかと私は嘆息した。老人の目は閉じ、肉体的には死を迎えている。血濡れた口髭も深々と負った火傷も見るに耐えないのだ。私は皿を掴み、床に放り投げた。


また後ろから男の腕が伸びて、首筋を擦過する微風を起こした。老人と同じ白い祭服だが、帯の色が異なっている。

今度はいささか食欲をそそられる臭いがした。料理名はディアリス・ヴァンダールだ。海港都市を統べる大主教は片腕を失ったまま安らかに眠っていた。


私はようやく銀食器に手を伸ばした。食事をするための道具は、なにものも拒絶するように冷たく固まっている。匙をとって、眠る男の背中に挿しいれて手前から奥にすくいあげる。楕円の端から手足が放り出され、膝や肘を起点に人形のように揃って揺れた。一口で食べきるには覚束なかったが、頭からゆるゆると含み、唇で吸い上げながら奥に運ぶ。咀嚼すれば濃厚な汁が噴き出して血肉と混ざり合った。それは能うかぎり下卑た味だったが潮風を孕み、私は鼻を膨らませて基本的な食事を楽しんだ。


対面には装飾のない質素な椅子が用意されている。食卓には空の器と銀食器が一揃い、彼らもまた美しい女性の来訪を待ちながら緊張している気配が感じられた。しかしあまりにこわごわと身を固めているため、つい大丈夫だと声をかけた。みれば、燭台も今にも叫び出しそうな興奮を散光で誤魔化している。


いつか椅子が埋まった時、私はきっと涙声になって「おかえり」と言うだろう。彼女はまず腰かける前に私の元へ来て、真っすぐな言葉でこれまでの軽蔑を謝るだろう。私は腰を浮かせ、彼女を抱きしめたい気持ちを抑えながら、晩餐が滞りなく始まるように優しく声を掛ける。「大丈夫、大丈夫だよ。ぜんぶ、もういいんだ。さぁ座って」


もう昔を辿ることはしなくていい。こうして同じ時間を過ごせば、互いにあの頃と何一つ変わりないことがわかるだろう。私は愛情と全く同質のものとなって語り掛ける。今迄意地悪をされていたとは思っていないよ。少しも感じていないから、もう俯かなくていいんだ。君の頬をかすめる悲哀は男らしく私が飲み干してしまえるから、心配しないで。それが私の義務、私のすべてだと思っている。


言葉を尽くして、心からの笑顔を見せて、君はようやく笑う。君は変わらず美しく、愛し合った日々の姿を留めている。まるで続きをしようと言われているようでたまらない。体からは後光のように催眠的な魅力が迸り、私達は一対の男女なのだと心に訴えかける響きが今も聴こえている。その旋律は私達だけに許されたものだ。これからも、……永遠に音色を堪能できると信じたい―――。信じたいのだ。


だから私は問い続ける。わかりきったことでさえ口にする。君にそう言って欲しいからだ。私の言葉はすべて願いなのだ。

君を愛している――だから、愛していると言ってくれ。


「……愛している。愛しているんだよ、リリィ……君を……」

「………………」


君は想像力を発揮せず、対話も拒絶し、取るに足らないやりとりさえ、嫉妬に燃えた男という型に嵌めて、ただ己の恐怖から逃げようとしていた。それが嫌になるほど感じられた。目元に熱が集まる。しきりに瞬きをするせいで世界は明滅していた。私は言葉を吐くまでに、長い時間を、要した。


「……………」

「……………君はずっと此処にいたね。この"男"は……ディアリスは君を訪ねてはいない。そうだね?」

「そうよ。何もしていない……私の中には貴方しかいない」

「あぁリリィ…………そういう言葉も使えるのか」


一瞬うっとりした顔をして、鼻腔を抜けた空気を微笑みと一緒に吐きだした。笑おうと努めたが、不格好な歪んだ表情だけが浮かんだ。


「正しいことを、ひとつ、ひとつでいい……答えてほしい。私を傷つけていないという証拠になる。君は、この男に、身体を、許した……? 怒らないよ……ねぇ、怒らない……」






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