345 肉料理:----・------(137)
短靴が石を擦った音がした。着衣をたぐり寄せて胸元を隠す細腕を掴む。
私はまだ冷静でいるように努めていたので、何も最愛の彼女を縊り殺そうと迫っているのではなかった。だが彼女は私を怖れ、一挙一動に獣性を見出しているようだった。両手を無理やりに組み合わせて祈り始めたのだ。
(あぁ……私の愛は死んだというのか)
社会的秩序を乱し、喚き、支離滅裂な行動を起こしている訳ではない。争いたいわけでも、暴力をふるいたい訳でもない。疑惑に満ちた心を晴らすために、その原因を探ろうと言葉を尽くしているだけだった。
例えば君が疑念を浮かべることすら愚かだと断じてくれるのであれば、話は終わる。もしくは本当に心を寄せる相手ができてしまったと正直に告白をしてくれれば、彼らに対する待遇を論じ合うこともできる。私はあくまでも理論的で、男という観念の中で欲求や本能といったものを犠牲にすることは得意だった。でなければ一国を統べるという過酷で精神や生活を消耗する教務にあたることはできないだろう。
彼女は核心を避け続ける。子供のような拒絶に意味はないといつわかってくれるのだろう。それは真の拒絶ではなく、許しだ。わかるだろう。私は彼女の言葉遊びに心底付き合っている。それとも私は、彼女が理解しないということを理解せねばならないのだろうか。
遠くに見える山脈や氷河、地続きの凍った湖、分厚い灰色の雲。ここは彼女の作り出した逃避の世界だ。純白さえもくすむ永遠の曇天。だが一か所だけ若々しい植生が繁茂している。寂寥とした光景を割る空間、青と白の邸宅と美しい庭の場所だけが光っている。愛おしい記憶として刻み込まれた場所、ロライン家の敷地だ。
噴水からは絶え間なく水が噴き上がる。真っ白い砂利と整えられた生垣と花壇、水の青みがきらきらと光って眩しく反射している。まるでこの場所だけが色を与えられ、神に愛されているように。どのような陰鬱さも、極めて醜い人の業も、光のもとで死に果てていった。
いつもここに来ると、彼女がいかにロライン家で過ごした日々を大切に思っているかを突きつけられる。私にとっては所詮間男の家なのだ。本来視界に入れる事さえ耐えかねることだが、彼女がここで安らぐというのなら、それでいいと思える。
私はとても長い期間、彼女を探し求めていた。何度も器を転じ、ようやく見つけた場所で、たとえ他の男に愛を囁かれていようと、愛撫に嬌声をあげていようとも、その一切を愛していた。愛情を注がれて育った無垢な乙女は、彼女の器であり一部に過ぎない。何も知らずロライン家の娘として養育され、庇護されてきた可哀想な娘。その器は元は彼女から生まれ、彼女に戻るべきものだ。いわば不完全な転生が行われたのだ。魂だけが隔離され、力も役目も知らない娘ができあがった。私がいない間に魂を分け、器すら放棄してしまった経緯はわからない。私は長い旅路の果てに、この閉じた世界で彼女を見つけ、空っぽになっていた君に物を教え、抱きしめ、人として思考できるまでに戻した。すべては、器と分かたれた魂をすべて一つに戻すための長い長い道程といえる。
(いま受け入れてもらえずとも、いつか抱擁してくれると、願っている……)
彼女は不思議と不完全だった。記憶がないわけではない。眼前の君が、かつて私と愛し合った君であることは確かだ。だが、こうまで拒絶されると自分が見捨てられたのか、あるいは私の気を引こうと裏付ける行為をしたいのか、わからなくなった。何か言ってほしい。明確な言葉が欲しい。どう思っているのか教えて欲しかった。もう私をひとかけらも愛していないというのなら、そう言ってほしい。引き裂かれるように苦しくなり、涙を流すかも知れない。だが、そうまでして答えを得なければ、愛は湧水のように不信感を生みだしてしまう。どれだけ愛していても…いや、愛しているからこそ疑ってしまう。かつて心底愛し合った時からそうだ。抱き合い、腰を打ち付け、淫猥に耽れば耽る程に、戸口の向こうに「恐怖」が立つ気配を感じていた。それは無言の訪いであった。私は「恐怖」が佇んでいることを堅固に確信していた。窓框に手をついて、硝子に睫毛を押しつけながら外を窺っても、恐怖そのものの姿をみることはできない。私はたまらず扉を開けてしまった。そうして私の心に恐怖が住み着いてしまうともわからずに。
恐怖を御し切るためには相手を信じなければならないと人は言う。だが、信じ切ることなどできない。全幅の信頼とよく言うが、それは負わなければならない責任や思考を放棄して、運命に依存することだと思っている。私はけっして自らの道を放棄したくはなかった。
息を吐く。重たい息は吐ききれずに肺に残った。




