343 肉料理:----・------(135)
「美術品の観賞に意味などない。あれらはすべて墓石だ。墓石を眺め、呼び起こされるものがあっとしても独りよがりな妄想だ。前を見据えるべき眼をいつまでも過去に揺蕩わせるのは愚か者のすることだろう。美は心をどうしようもなく燃焼させた時、発する命の輝きなのだ。石を穿つ一突き、画布におろす筆、無心に繕われる針、順序立てて編み込まれる糸、その糸を選り分ける綿繰り、木の真新しい匂い、すすのこびりつく暖炉、日常生きる行為に美しさが備わっている。何よりも、人そのものが美を有する器なのだ。だのに、誰も己を表現者であるとは思わず、また表現者になろうともしない……孤独に、黙々と美をどぶに捨てるだけなのだ」
はだけた衣をたぐり寄せ、身体を掻き抱いていた女が初めて振り返った。私を正面から見ようと試みてくれている。そのことが嬉しいというのに、微笑はうまく形にならず終わった。ゆっくりと頭を回し、見せた面影は悪漢を刺激せぬように物分かりの良い顔を偽装していたのだ。
快感で荒廃した頭のままでいてくれればよかったのに、正気に戻ってまた私を拒絶している。このまま無益に時間を弄することを望むなら、ますます嬌声を響かせてやることも夢ではない。どれほど君に関心を持ち、愛しているか、態度にだしているというのに、この愛はさしたる主眼にすらなりはしない。欠片も伝わっていないのだと思うと、心に風が吹きすさぶ。どうして愛し合ったことを受け入れてくれないのだろう――けれど、彼女は一瞬こちらと目を合わせ、すぐに逸らした。下唇を噛む仕草に、男を気遣うやさしさが感じられ、空しさが薄らぐのを感じた。
(私を悪し様に扱うことに罪悪を感じ始めているのだろう……? それとも疼いて、男を欲しているか。君はつくづく……どこまでいっても女だ)
交差した腕の隙間から平らに押された胸がのぞき、赤く染め上がっている。男の為に生まれた体は染みもなく、穢れもなく、ただ献じられるために在る。彼女は自分の美に無頓着に、別事に心を痛めながらこう言った。
「……そんな風に思えるのに、どうして躊躇いもなく殺すことができるの…?」
つまらない問いかけだった。しきりと歯噛みして、いまだに数千年前のことを言う。それが女の執念深さである。彼女は私に裏切られたと思っているのだろう。そう思うと、体が燃えるように感じられた。
快感に埋め尽くされていた頭は既に切り替わっているらしい。それとも嬌声をあげながら、かすかに残る理性で私を責める理由を見つけようとしていたのだろうか。谷間の汗を拭ってやると、出し抜かれたことをきらって、また体が硬くなった。前腕の痣は消えて、痛みはないようだった。
千年以上自分に引きこもっている女が未だに同じ話を繰り返すのは、泣く理由を探しているだけなのかわからなかったが、言うだけ言ってみようと思った。涙を吸う楽しみを描きながら、女を高い所から見下ろす気分になっていた。
「豚や牛を好んで食べても、飼育し、殺すだろう。人も同じだ。使役して、生き様を眺めることもするが、殺戮に躊躇いはない。今も人を使うこともあるし、自分の手を下すこともある。この手で君を悦ばせ、殺してもいる」
君も好んで家畜を食すだろうとは言わなかった。家畜と人を同程度に見積もっている私と違い、家畜と自分とを同程度に見積もっている彼女は根本的に異なる。あくまでも柔く話を流して、そのことは触れなかった。彼女は聖女であるが、生きる為に物を食べ、不要なものを排泄し、眠る必要がある。彼女自身もそのことは理解している。ただ先を考えずに感情で物を言っただけなのだ。
「君ほど心根が美しく、美の塊である人はいない。君の中には何千年と培われた命が燃焼し続けている。他のどんな名器も霞み、君を前にすれば自分の錯誤を笑うだろう。物事はすべて君の反対側に押し流され、何者もかたわらに留まることはできない……私でさえもままならないことだ」
「……私はもう何者でもない。私はただの入れ物で、人の側に置かれ、飾られるだけのものよ……貴方が忌み嫌うものになっているの」
「君の自己評価の低さにはいつも驚かされる。けれど君は自分自身を見つめる事はできない。野川にうつった青空が水の煌めきでしかないように、空は空を、海は海を、ありのままの自分を認識することができない」
「違う…認めていない訳ではないの。私はもう別れを告げているの。だから貴方も変転を受け入れて……お願い」
「変転、君が君の半分を手放したことをそう言っているのかな。求めることをやめろと」
「私はここから世を眺めて、いつしか心を動かさないようになるわ……死を迎えられない代わりに、永遠に眠り続ける。それだけは叶えたい。唯一のことなの」
「……弱ったな」
「なに?」
「出来損ない」
びくりと、肩が竦み上がる。彼女は息を止め、歯をゆっくりとかち合わせた。




