341 肉料理:----・------(133)
男の声は髪の上から降ってくる。その優美な旋律は、男に満ちる自信と精神の安定を伝えている。リリィは吐き気がしていた。その声は数十年聴き続けた男のものではなかった。張りも、音が落ちてくる高さや喉の震えも、知ったものではなかった。
「いま君は私を拒んでいるが、それは聴覚と臭覚で私が"別人"であると認識しているからだろう。怖いんだね……わかってあげられる……さぁ克服の手助けをしてあげよう。次は触覚で私をたしかめてくれ」
リリィはあらためて竦み上がった。彼は膝に頭を擦りつける女を抱き起こそうとはせず、さなぎのように固まる背中に上体を被せてきた。肩甲骨のあいだに意図的に吐息をあてて、肩に置かれた手は腕を擦りながら、下へ下へと下降していく。
女は急いて体を動かしたが、それよりも男が押さえつける方が早く、無防備に背中を曝したまま一秒でも早く悪夢が去ってくれるように目を瞑って願うことしかできない。白い衣の下で体温をあげて赤くなった肌が、忙しなく震えるのを見て、男の瞳の底で赤い光が弾けた。
「やめて」と彼女はもう一度言った。か細く、まるで父に言いつけると語尾に付いても可笑しくない響きだった。男はうなじに口を押しつけたまま笑う。返事の代わりに綿でくるまれて育った無垢な肌を舌でねぶった。首の肉を口腔に含むと、既に始まったことを認めたがらない女の悲鳴が耳に届いた。女は狼狽して益々暴れるが体を均等に操ることができず、どんな働きをすれば思うままに逃れることができるのか順序を理解していなかった。
彼女は低級な女がするように、肉体的な攻撃にでることはしなかった。美しい言葉だけを紡ぐ口で、罵ることも選ばなかった。高潔な魂がそれを許さず、また自分を欲しいままにしようとする相手を拒絶する方法も習い覚えてはいなかった。なぜならば彼女は美しい宝石そのものだからだ。宝石は誰よりも輝くことはできるが、人から人の手へ渡ることを拒むことはできない。彼女は人の世のなかで最も美しい鉱物でできていると言えるが、肉体や精神は最も弱く、か細いものだ。不公平なく誰彼も愛そうという献身の心が永遠の美を支え、彼女を脆弱に縛り付けていた。
対となるべく生まれた男は他者を傷つけてこそ輝く。他者を攻撃することに関して最高の能力を発揮するのは男であり、また攻撃に使う力の種類も豊富に持っているのは男の方だ。女は自らの美貌に高い値札をつけたがるが、その美しさは力の上で初めて輝くものだとは知らない。力を有する男の上でこそ輝くものだと知らないのだ。
「君はいつも美しい……そしてやさしいね……やさしいから心を傷つけることができないんだ」
「んっ、……っ、はっ」
男の唇が持ち上がり、濡れた首筋からようやく離れた。彼女は歯を揺るがして、言葉が漏れないように努めているようだった。男は征服された彼女の声が好きでたまらなかったが、頑なに拒もうとする彼女の柔い仕打ちも、耐え切れずやがて水をくぐった声を聴くことも好んでいた。まだ女の息は弾み始めたばかりだ。ここで物事を急いては、せっかくのつぼみが開く前に地面に落ちてしまう。男は体を離し、肺に詰めた息を吐きだした。
「……私が嫌いかい」
「違う。貴方は違う……これ以上私を壊さないで」
「わからない……リリィ、私を見てくれ。魂が見えている筈だ。私が誰かわかっているだろう? それなのに打ちのめそうというのか。それはひどいことだよ……ねぇ、私を傷つけないでくれ」
ついぞ拒絶しか口にしなかった女の口が止まった。硬直した瞳が戸惑いに濡れていくのを男は逃さずに見ていたが、柱に背中を押しつけて少しでも離れようとする女の肩に額を押しつけて、嘆き悲しむ素振りを見せた。まるで敬虔な信徒が神に祈りを捧げるように。救いを与えたまえと、非力にしなだれる。決して拘束はしなかった。
「きず、つ、け」
「痛いんだ。心が痛い。君が拒むからだ……」
「やめて……やめて、お願い」
「この顔が、ディアリス・ヴァンダールのものだから、怖いのか?」
「っ……」
「知らない男に抱かれるのがこわいと……君は私の前でそういうつもりなんだね……君が?」
「!――いや!」
男はあっと言う間に隙を突いた。胸の前で交差する腕を掴むと、くるりと身を回して背後からすっぽりと女の体を抱き込んだ。立ち上がろうとする腰を掴み、真横に縛る帯をゆるめる。引き千切らずとも左右に割れば開く衣は、宝石に与えられた化粧箱のようなものだった。さらされた真っ白な肌におびえるように衣がさらに脇に滑り落ち、うなじを吸われた女は身に溢れたものを取り鎮めようとのけぞった。豊満な乳房が男のために真上を向く。




