340 肉料理:----・------(132)
いまやシルヴェーヌは頑なな信奉者となって久しいリリィに、多くの詩と散文を与えるだけでなく、ディアリス・ヴァンダールとの浅ましい恋物語を聞かせることができる。いまだ未完の物語を、検閲も嫌って固く抱きしめている女に物を言う資格を有したのだ。
――他人の為に生きるな、リリィ。おまえがいなくとも社会は成り立つ。だがおまえには、おまえが居なければ立ち行かぬのだ。解放を選べ、道はある
彼女は押し黙った。
――長い間、囚われながらも狂わずに耐えていられるのは、己を封じるという行動が自発的な決意に基づいているからだ。おまえは"虚無"ではない。行動に走らせる感情に気づかないふりをせず、向き合ってくれ……それが最後の願いだ
今日の語りが最終的な一打となり、明日からの彼女の姿が変わると考えているならば、それは思い違いだ。何故なら、いずこにおいても彼女の中には女の冷たい現実主義が聳えた立ち、情感で形づくった短剣で常に己の喉を突かんとしているからだ。
自らを打倒する革命が起こってはじめて、硝子の塔の外へ美しい魂が踊り出る。その解放を待ち望んでいるからこそ、絞首刑を覚悟してまで戸口に立った。
今日、心の扉のまえに立って投げかけた言葉は、これからの物語の為の叙唱である。シルヴェーヌの声は硝子窓を叩く雨のように流水となって落ち、塔に閉じこもる女の顔に忙しない影を投影させる。彼女は頷きはしなかったが、それでよかった。硝子の塔を水溜りが囲み、水底に沈みゆくことが誰の目にも明らかであっても、前提を構築せねば革命は起こらない。おごそかに泣く声に胸が痛んでも、すべては愛しい女の幸福を想ってこその企てだ。
いわば彼女は、彼女自身でつくりあげた信念を徹底的に遂行するための一個の駒になっている。他者への献身のために自己を捨て去る決意と、自らを労わって欲しいと願う両者の願いは、どちらも同じく正しい。今宵両者は互いの見解を述べた。自分に目を向けるように促す言葉など、一度告げれば二度は不要だ。シルヴェーヌの願望は伝えた。あとは彼女の選択を待つ。
穏やかな迂路を戻って来た白狼が、空と海の境を振り返った。夜雨のあとの薄昏い朝が白くぼんやりとした光りを放っている。
押しつけんばかりの重たい雲に夜が残り、都市を圧している。片や澄み切った上空には朝が来ていた。美しい光景だと感じることも最後になるかも知れぬとシルヴェーヌは考える。いま同じものをみつめている三者は、滝のように落ちかかる時を感じず、限りある命を忙しく生きることはできない。長命とは倦怠を抱え続けることであり、鬱屈を吹き飛ばすほどの青空を見上げることが出来るのは、真に滅ぶとき以外にないのだ。そうした機会が本当に訪れるかはわからない。しかし今日、シルヴェーヌは絶対君主に対して反乱を起こした。それは同時に美しい女王への忠誠でもあった。
孤独な女王の白い頬がきらきらと輝いている。朝陽を見つめるリリィの瞳から、真っすぐに落ちた涙は顎にかかり、薄衣に染みをつくる前に風に浚われた。風は彼女の代わりに鳴くことを選んだ。何度となく絞め付けるくびきに耐えてきた女の悲哀と結びついた。その余映があまりに凍みて雨となっても致し方なかった。
――よくなる、きっと……
だがそのあと誰も何も発しない。
朝陽に目を向けながら言明を聴いていたリリィは、彼の言葉の意味を翻訳にかかることはなかった。ひっそりと小宮殿に意識を戻して、膝の上で重なる両手を額にあてて縮こまる。膝と手と額を互いに壊し合うように食いこませる。思考は真っ白になり、叫び出したい気持ちになった。
愛する片割れが、自分の独特な内的一貫性を打破してほしいと願っていること痛いほどに伝わっていた。しかしリリィの脳裏には常に「とはいえ」という否定が浮かぶ。おそらく、後にも先にも行けない原因は、希望をもてないことなのだ。
「希望か。私はそれを受け取ったばかりだ」
青と白の庭に似合わない死臭が、足元から漂っている。黙りこくったまま小さくなるリリィの背中に、冷たい手が乗り、声は直接体に響き始める。
拒絶が一際濃く肌を走った。
「親愛なるリリィ、色々な事情に阻まれて訪いが遅れて申し訳なかった。私のことはあとで好きにしてくれていい。なんでもいう事を聞くよ」
背中に走った美しい微動に男は微笑を浮かべて「なんだい」と訊いた。問いかけようとする空気を感じ取っていた。
「触らないで」
「わかった」と、男は片手をぱっと上げた。続けて、余裕をもったまま詩句のようにこう言った。
「人の五感というものを知っているかな。視覚、聴覚、触覚、味覚、臭覚の五つだ。もっと多くの感覚を有しているが、大まかに分類すると、この五つのことを指すんだ」




