34 濤と冷涼と、
石にさざなみが封じ込められている。
リーリートは露出した堆積層を見上げ、波状の模様に目を凝らした。
河川のような一方向の営力が生み出した波曲状の漣痕が、うねりを持つ地形に刻まれている。帯のように走る鉱石層は水流の選別によるものだろう。高密度の重鉱物の断面をこれほど近くで見た経験はリーリートにもなかった。
坑道を支える支保工は重厚で、湿気を吸った表皮のおうとつが角灯に照らされて白く反射していた。
坑口の時点で冷やりとしていたが、立坑を深く降りると凍える空気に出迎えられる。絶えず湧き出る鉱水の音が、狭い坑道に跳ね返る。
樋が落盤によって破壊されており、足元は既に泥の海となっていた。坑木は倒れ、底の見えないぬかるみの中を進む。
理力石がなければ、活動は極端に制限されていただろう。理力のおかげで鉱夫たちは外気の影響を受けずに体温を保ち、闇を追い払う光が彼らの行く先を照らしていた。
乗馬靴を膝まで泥に埋めながら、リーリートも散らばる坑木を跨ぎ、くぐり、更に奥へ進む。
先導する灰桜のエドの後ろに青嵐のトトが続き、リーリートの歩みを確かめるように何度も振り返った。
コウモリの排泄物や死骸の横を通っても、坑木の裏にびっしり生えたカビの菌糸があったとしても、足元に注意を払いながら着実に男達の足についていく。
リーリートは吐息すら溢さない。呼吸を乱して体力を消費しないように努め、理力灯が照らし出す狭い視界をその眼でつぶさに観察していた。
芸術だな、と平時であれば足を止めただろう場所を次々に通り過ぎる。掘り手の意図がわかる壁痕に惚れ惚れさえしていた。坑道に敷かれた樋、湧き出る鉱水を樋に落とすために岩と岩の間に導水の痕がある。リーリートは微かに笑った。男達の粗雑な見た目とは対照的に、坑木の角度さえ計算されつくされている。この地下の奥底、長く深い坑道を穿った者達の熱意の中を歩いている。
落盤した第八坑道の手前、基幹坑道まで到達した。
至る道程はすでに瓦礫と汚泥で埋没して高さがなく、土砂をかき分けて先導するエドの足が初めて止まった。目の前にある壁を越えねばならない。
リーリートは詰めていた息を吐くと、手を翳す。
詠唱が文字として浮かび上がり、彼女の面差しを青白く照らし出した。
「瓦礫を移動させます。天盤を支えているような石、動かしてはならないものの指示をください」
「あのでかいのは支えになってる。動かしちゃならねえ! 坑木が残ってるあそこだ」
「先生、石を捨てるのはさっきの分岐の先に」
「先、斜坑前の粉砕室ですね?」
「そうだ。俺たちは坑木を起こすぞ、天盤を支えるんだ!」
まだ第八坑道の始まりに過ぎない。レヴとレイクの二名がいたのは最奥、水平坑道の終点だ。
リーリートは瓦礫を移動させ、噴出する水を後方に押しながした。
どれほど掻きだそうとも、流水の勢いは衰えない。水位は先程から下がることも上がる事もない。エドは先頭で手ずから土砂をかきわけるトトの腰まできている水位を見ていた。女は瓦礫を空中に飛ばしながら、同時に水を外に送り続けている。それなのに水位に変化は見られない。
坑木に刻まれた数字からして第八坑道の突き当たりはそろそろだ。
「トト下がれ!」
頭上の石が押し出され、圧縮された水が男達を襲った。
瓦礫の斜面は瞬く間に崩れ、濁流に押し流される。リーリートは歯を食いしばって男達の体を瓦礫の波から浮上させた。
水流は空気に押し潰され、形を変え、壁を渦巻いて走り、天井で固定された。川が天井を流れている。天地の理さえ覆す理力に鉱夫たちは慄きながら女を見た。そして女の視線の先、最奥に現れた滝壺と、天盤に真っ黒く開いた大穴を。
第八坑道、最奥――だった、地底湖を見た。
「レヴ! レイク! レヴ! レイク!!」
トトの絶声がこだまする。
汚泥の中に入ろうとするトトを掘子たちが押さえこんだ。エドは天盤の向こうから落ちてくる水の量と滝壺の水量が釣り合わないと感じた。どこかに吸い込まれている。きっともっと下に流出する場所がある――いわばここは浄水の最初の層だ。
天盤にあれほどの大穴が開いているというのに、水面は平面で瓦礫がない。レヴとレイクが岩盤に押し潰されずに生きていたとするならば、彼らがいるのはもっと深い場所―――エドは女を振り返った。彼らを救うためには、水面を埋める瓦礫を取り除くしかない。それが正しいことなのか最早誰にもわからない。しかしエドの視線の先――――頭を倒し、女は両膝をついてうずくまっていた。
「おい、あんた! どうした!」
顎を掴み、上を向かせる。泥だらけの手で折れそうな薄い体を支える。
意識はある。双眸に光もある。けれど、唇は紫色に変色していた。
水を含んでさらに重くなった上着と下衣は黒く、女の体温を奪っている。
撤退―――その言葉がエドの脳裏に浮かんだ。女は素彫りの壁を乱暴に掴んだ。
「…………ッ」
リーリートは歯噛みした。身の内にある理力が抜けていくのを止める事ができない。
水を押し流し、鉱夫たちの体温を温め、瓦礫を吐き出し続けている。自分のことなど二の次だった。このまま空気中の理力を使い果たせば、全員の脱出さえ難しくなるだろう。
――なら、次の手を打つ。
「トトさん、ここに!」
リーリートの声に、男は泥を攪拌しながらリーリートの前に膝をついた。
「どうした!? あいつらは、…! なぁアンタ、しっかりしろ!」
「大丈夫、助けます。だから…手を出して」
かじかんだ手でトトの手袋を外す、片方外すだけでリーリートの貧弱な指は寒さに感覚を失うってしまう。理力操作を乱されながら、もう片方に手を伸ばすとエドが先手を取って動いた。
皺だらけのトトの手を、感覚のない手で強く握りしめる。自分と理不尽さへ向けた怒りがトトの身に渦巻いている。リーリートは瞼を閉じた。
「…………」
研究室で受け取った光の粒―――あれはこの男の理力だった。
龍下の手を握り、泣きながら身の上話をしていた青嵐のトト。男は理力を行使したつもりはないのだろうが、きっと世界中に助けを呼びたくて、家族を助けてくれと叫びたくて、不完全ながらも理力を発現させたのだ。龍下を坑口に案内した際に発動したリーリートの理力の残りに、彼の力が覚醒を促されたのかも知れない。
絶望から打ち上げられた願いがリーリートに届いたのは偶然だったのか、何もかもを紐解くのは全てが解決してからだ。
リーリートは、肺の息をすべて吐き出し、理力を手に集めた。
「レヴさんとレイクさんのことを教えてくれますか」
そうリーリートが訊ねると、トトはうなり声を上げた。罵声ではなく、痛みに喘ぐ絶叫だった。
手を握られたまま悶絶し始めたトトに周囲は動揺する。
女の言葉を誰も理解できず、それが何になるのか、何も理解ができない。
「…何らかに阻害され、私の理力は今や有限です。理力がなくなる前に、トトさんの理力を借りて、レヴさんとレイクさんの理力を探知します」
「俺に! ぐっ…!! り、理力なんて、ねえ!」
「あります。灰桜の皆さん、一か所に固まっていてください。理力の出力が少ないければ少ないほど私が理力を使用できる時間が伸びます」
「学者先生の言う通りにしろ!」
エドの言葉に灰桜の掘子たちは坑木のそばで固まる。
トトが自分の喉から制御できない呻き声をあげた。
「ぐ、なんだ! な、ッ な、う……ぐ、あ」
「お腹に力を入れて」
「んなこと……っう!!」
「今貴方の体に私の理力を送っています。異物を感じて吐きたくなるでしょう? それが貴方の中の理力です」
「あ、あ、あ、あ、くそっ! わか、る、かよ!……あ! もう、やめろ!!」
天井を這う濁流が、時折自分の本性を思い出したかのように雨となって落ちてくる。
湿気とかび臭さが充満した空気を吸い込みながら、トトはひとしきりもんどり打った。けれど女の手を離すことは無かった。
「………温かい湯に浸かってるような気がしてきたでしょう」
「あ、あ、あ…………」
ある一点を通り過ぎた時、がくんと男の頭が後ろに落ちた。口から涎が滴り、首を濡らす。「あが」唾液を飲み込むトトの頭が跳ねる。
「無理やり貴方の力を増幅しています………あとでいくらでも殴ってください」
「く……あい、つらを……!」
「二人の事を強く考えて……」
トトの眉間に汗が流れ落ちた。自分の腹の中を手でぐちゃぐちゃにかき回されているような気分だった。それでも女の手を握りつぶしてしまわないように、男はありったけの理性を注ぎ込んだ。すべては家族のため。
「どんな方ですか? 種族は」
「………ク、サ ビ 、…」
「クサビ族。どんな色の鱗ですか」
「桃………桃だ」蛇の顔を持つレヴの顔が浮かぶ「レヴ……桃色っつーと、ブチ切れ、て、機嫌が…………めんどくせえんだ……」
「もうひとり、レイクさんは」
「角、角………角持ちの……ウリアル……」
「ウリアル?」
鉱夫たちは口を挟まなかった。固唾をのんでこれから起こる何かを待った。
そうして女は目を開ける。顔をくしゃくしゃにして笑った。




