336 肉料理:----・------(128)
男の魂に既に意識はなく、ましてや痛覚や認識もない。彼が長年抱えていた心を噛むような侮蔑や情愛は、白狼という木箱の中に詰め込まれた一つの硝子球に過ぎず、ふと思い出された時に可愛がられる。空しさには変わりはないが、かつての彼がそれを知覚することはできない。白狼にとっては食事であり、誰の魂が死後どうなろうと咎めるといった考えは浮かばない。だが、囚われた魂の転生は叶わない。そのことがシルヴェーヌの心にどれほどの影響があるかは、言葉通り計り知れない。彼との過去は共有されているとはいえ、あらゆる情感が言語化されているわけではないのだ。はっきりと言えるのは私にとってディアリス・ヴァンダールは何者でもないということ。そしてシルヴェーヌにとってはそうではないということだけだ。
シルヴェーヌの魂は言い知れぬ優艶さをもって漂っていたが、毀れ落ちる粒子は風下とは異なる方向、白狼の体に向かっていった。次第に推力を増し、魂のほとんどが吸いこまれていく。そこに幾ばくの迷いもないことが、彼の心に追い詰められた気配が微塵もないことの証左であった。私は溜息に似た息を吐いたが、無意識に出たものだった。魂のすべてが白狼の胎に収まると奇妙に心が落ち着いた。緊張していたのだ。
白狼は黙ったまま魂を受け入れ、体内にシルヴェーヌがいるにもいないにも関わらず、涼しい顔で口を吊り上げている。箱に硝子球がいくつ増えようとも歩みが鈍ることはないのだろう。
――暫し眠る。不都合はあるまい
私は不都合を考えてみても何も浮かばなかった。この身はこの世にはあらず、あの庭の外に出る事はできない。いつかの残滓が、たまに夢を見て夜を歩いている、それが私だ。ならば本当の私は何を考えているだろうと一瞬呆れる感慨に囚われて、一笑に付す。言ってみれば青と白の庭の囚人となっている自分も、今ここにいる自分も、眼下の邸で散々死を賜っている自分も、すべて同じ私であるが、そのどれもが私ではなかった。もしも硝子球が砕け散り、再びひとつになろうとして、それは元の形に戻るのだろうか。いつになく言葉は返らない。
「………ないわ。貴方がそうしたいのであれば」
――のう、それは何だ?
「なんのこと?」
――可笑しな格好をしている。その強張った手は何だ? ふむ。名が付かんのなら教えてやるが、わかるか
なぁに、と私は身体を見下ろしながら左右に頭を振った。白狼が見かねて、長い鼻で手を押した。握りしめた拳を数度突かれて、やっと手のひらを開く。何も持っていないことをしめそうとしたが、じっとりと汗ばんだ平には何もないが指先がひっきりなしに震えていた。少しも怖れることはないというのに、震えているのだ。
五指を支える窪みに指先を押しつけると、爪の痕が少し残って消えた。私は白狼の目をぱちりと見て、何か発しようとしたが何も聞かせることはできなかった。何もないと、言って聞かせることすらできなかった。
――見よ、あの小さな口を。愛しくてならん。百年でも千年でも離れて不自由はないというのに、最後にそんな姿を見せる。弱弱しく、狂おしい。この世におまえほど悩ましいものはないな、リリィ
「からかわないで」
――本心だが
「私は……つまらない女よ」
――……それで?
「……もう何も感じないもの」
――どうだかな。感じているから、てのひらを握る。悼むから、顔を顰める。おまえは認めたがらない。強情なのだ。おまえ自身に対しても
「……貴方は私にとってとても大切な」途中で声が割り入った。シルヴェーヌは嘆息する。
――余がどうという話はしていない。ましてや好く好かんという話でもない。心に積もる愛の音に、耐えかねているのではないか
「愛?……愛なんて……今の私を試すのは忍耐だけとなってしまったわ。貴方もわかっているでしょう」
――この数千年、痛みを忍び、恥を忍び、おまえはそればかりだ。もっと痛みを感じてみよ。暴力を受け入れることとは違う。自身と向き合い、醜さを直視してみろ。いつまでも万物、およそ外の事だと閉じこもっていると、ここぞという時に震えて、言葉にもならんぞ
白狼の鼻先がもう一度手のひらに触れた。手の甲の筋に沿って、ぐっと鼻を押しつけ、低くうなってから離れた。腕を伸ばすと呼ぶまでもなく頭が滑り込み、膝の上に機嫌のよい顔が乗る。
「……私が何かから目を背けているというの?」
――では、何が手を震わせる
「…………」
沈黙。シルヴェーヌは声をあげて笑うかと思いきや、笑うに相応しい空気はなかった。待たれていると感じ、向き合わねばと沈黙に耐えるも、何に向き合わなければならないのか解りかねた。
「……戻ってきてくれないの」
――戻って欲しいなら、そう言え
「貴方がそうしたいのであれば」
――だからだ。だから戻らんと決めた
両手を握り込んだ。力を込めたから震えているのか、震えを押えこもうとして失敗しているのかわからない。




