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リリィ 思いつくままに書きとめたささやかな覚書と一切の崩壊。無力な愛、ひとつの不幸、ただ愛を愛とだけ欲したある価値の概念  作者: 夜行(やこう)


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333 肉料理:----・------(125)

風が鳴る―――彼の言葉を聞かせているのは、いつか吹いた風だ。

いつか私達の間をいざって来た風が、今また私の元を訪れて髪を直し、悲哀の気持ちを慰めに運ばれて来たのだ。片手を空に差しのべると、凛々しい風が絡みついて指を遊ばせる。



楽しそうだ。顔を見ればわかる。

瞬間の判断を、私も多用している。みんなそうして生きているんだ。

じゃあ次に、その判断の信用性の話をしよう。


女がある男に挨拶をした。「こんにちは」と相手の目を見て、愛想よく。

互いにそこまで仲が良くはなかったけれど、名前と顔ぐらいは知っている間柄だ。同じ机に座って、修学をしようとした女に、男は挨拶を返さず、それどころかひどく無愛想な態度をみせた。目礼もせず、本をまとめると席を立ってしまった。


当然一人になった女は戸惑う。椅子を押しこむ音まで無粋に聴こえた。彼の機嫌が悪かったのか、もしかしたら自分の声が聴きとりずらかったかも知れない、もしくは彼が全く別の事にとらわれていてそれどころではなかったか。

とにかく女は色んなことを浮かべるだけ浮かべる。真相は彼にしかわからないから、答えをもらうことはできない。案外気にするようなことじゃなかったとしても、"返事をしてもらえなかった"ことで男に対する印象は悪くなった。

他人からの挨拶に何も思わない人と、挨拶自体を好んでいない人もいるね。本当に色んな感覚の人がいるんだ。私はね、この前挨拶をしたおばあさんに「聞こえてるよ!」と怒鳴り返されたことがある。すぐに周りが理由を教えてくれたんだけれど、彼女はとても耳が悪かったんだ。相手の声の大きさも自分の声の大きさも調整できずに困り果てていた。教会には色々な人がやってくる。治療をしても勿論、謝罪はないよ。お礼の言葉もね。救済に細かい事は気にしていられない……ごめん、話を戻そう。


挨拶を返されなかったという行為が、好感に結びつかなかった場合、挨拶をした方の自尊心が傷つけられることがある。声をかけたこと自体が悪かっただろうか。もしかして嫌われているのではないかと思い悩んでしまう。


予測は底へと落ちていき、新たな仮説が生まれては否定されていく。枝分かれした論理の系譜はどれも泥の中につながっている。ここまでくると、相手のことを嫌いになり始める。あぁ、そうですか、じゃあ次は挨拶なんてしませんからね! という風に。その女の人も自分が嫌われているんじゃないかと思い、落ち込んだあとすっかり彼の事が苦手になってしまった。


後日、そうしたことをすっかり忘れて過ごしていると、こんな場面に出くわした。挨拶を返さなかった男が、仲間内とお喋りをしているんだ。隣の部屋にいた女は悪い事はしていないけれど、声が届いてしまったから盗み聞きするような体になってしまった。それも何だか聴いていると自分について語っているとわかった。


あぁ別の所に行かなきゃと思うものの、聞いてみたいとも思ってしまう。もし「顔を見るのもいやだ」と聴こえてきたら、深く傷ついて正気を保っていられる自信はない。この瞬間が苦い思い出となって夢ばかりみるはず。


しかし、予想に反して、脳裡の逃げの考えとは別に、全くことなる方向の対話が聴こえた。「とにもかくにもあの人は魅力的なんだ」「一生のうち心から尊敬する人だ」「何千人といるなかであの人だけが輝いて見えるんだ」そう、こんなに嬉しい言葉はないよね。

耳をふさいでいた両手をぴくりと離し、うんうん苦しんでいたことも、早くも見始めていた悪夢も吹き飛んで、顔はにまにまと綻ぶ。声は確かに挨拶を返してくれなかった男のもので、非の打ち所がない褒め言葉の終わりには、こう結ばれた。「こんな話照れくさい。これは秘密だ。決して洩らさないでくれ」こんなとどめはない。あぁ、知らん顔できる自信はないと女は赤い顔を覆う。


この盗み聞きがなければ、嫌っていたままであっただろう男の事がとても良い人に思えた。さて男女は想いを伝えあうだろうか。

そのあと、男はその子のことを、人前で冷たくあしらった。その男は、情感を胸に秘めて大事にする気質で、魅力に思っているという事を相手に伝えるつもりもなかった。想うのと、成就することは全く別の事だからね。

女は何故か、冷たくあしらわれても満面の笑みでいる。それを見て男は思わず異様さを感じた。まともならば別の反応が返るはず。だから二度と女のそばには近寄らず、好意もなかったことにしてしまった。


こういった認識の変化は何ら奇妙なところがない。互いに新しい一面を見て、片方は「好き」片方は「嫌い」と変化させた。生きる上で倫理の撞着はひっきりなしに起こってしまうものなんだ。

人は好意的な評価を受けると、その相手に対して非常に好感を感じてしまう。

目に見えた事柄、耳に聴こえた言葉、文に書かれた愛の言葉。そうした様々な要因で相手に対する認識は激しく上下して、良い方向にも悪い方向にも容易に転化する。


そう、誰かを愛したり、軽蔑するといった考えもそうだね。物事を捉える直感につき従って、高ぶりも落ち込みもする。他者に対して抱く情感というものはひどく流動的ということなんだよ。






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