330 肉料理:----・------(122)
「おまえは物分かりが良い。良すぎるほどだ。相手の為に形を変える事で不自由になっていく。もっと他人を傷つけよ。おまえの美しさをもって、傷を刻みつけるのだ」
――初め私達は向かい合っていた。一度目は自分を見ていると思っていたでしょう。でも二度目では違ったはずだわ。鏡のなかの肖像は貴方自身でなくてはならないの、シルヴェーヌ。とても素敵な名前ね。鏡のなかに誰がうつっているかみえるかしら。
ちりり、胸が焼ける。
憎らしい男の後ろに、プラシドとガオの面影がにじみ、さらに後ろに長い旅路のなかで出逢った人や獣が浮かぶ。貴人は横を向いた。
「"私"の事など知ったことではない……」
――誰よりも貴方自身の気持ちを認めてあげて
「おまえは……心に他人の名前がいくつ彫ってある? 承諾もなしに……余のなかにはおまえの名があればいい。男など消えればいいのだ」
――自分だけが汚れているという証拠のように、あのひととの記憶をかかえているけれど、私には愛の記録にみえているのよ。愛にはたくさんの形がある。いびつで、隠し通さなければならないものであったとしても、すごく嫌いで、でも好ましいところが少しだけあったとしても、暴力を伴うものでも、どんな形でも愛といえるの。出逢った人たちが証明してくれたでしょう?
「やめよ、痛みを受け入れるな………………まわりがどうこうではない、余が好かんわ。こんな自分。誰かの為に生きるおまえも、おまえを傷つける何もかも」
――頑ななところは、いっしょね。
「忘れたか」
振り向いた彼女は、少し間をおいてから肩を上下させて笑った。女らしい華奢な体に、胸の前に折った腕が乳房をもちあげる。女らしい特権が、いささかの汚れもない存在の中に生きている。
――物分かりがいい? だって私は頑なで、我儘で、とても自由よ。まわりの人は何だかそうは思ってくれないのだけど、胸の中に眩暈のするほどの愛がある限り、美しく生きられると思っている。だから愛だけを携えている。ねぇ、シルヴェーヌ。傷の意味をわかっているのでしょう。どうして胸が疼くのか、否定しないで。貴方がすきよ。かつて私であり、いまは新しい心をもっている。こころのままに誰かをうんと愛して……
「おまえがいい。おまえだけが欲しい。それに相手があの男でも同じことをいえるか? 見ていたのだろう、低級な狂奔をだ」
――ねぇ、シルヴェーヌ。亡くなった妻子が彼を恨んでいたと思うのは、だれ?
「決めつけているのではない。訊くまでもないのだ。男はそういう生き物なのだ。生物的な頂点に立って仕事をする定めのものなのだ。余も、そこで死んだ男も、未練たらしいあの男もすべてそう思っているから女を下にみて所有しようとする。すべからく価値などない」
――あら。男の人ばかりが汚くって、美しくないなんて、どうして思うのかしら。
「何人と見てきたおまえは、どうして思わないのだ」
――だって、心からの愛を知っているもの。愛を知っている女は手ごわいの。私を強くしてくれたのは、貴方が否定する愛にほかならないわ
真向かいから見上げる顔は純潔を帯びて、その目が向けられたまま死ねば幸福だろうと思った。いつのまにか流れた涙を拭う唇は、あらゆる美徳を極めている。それを受け取るべきなのは自分ではないと初めて思った。ならば誰であるというのかと思うと、転がっていた骸ではないことは確かだった。ディアリスの器に入ったあの鬱陶しい魂でもない。
そのとき『………夢で』と呟いた少年の声が鮮明に蘇った。『夢?』と返した自分の声も。彼はこう言った。
『そう思っていたのです。彼女とまみえました。霞のように頭から消えましたが、彼女をみて思い出しました。今のように時のとまった不思議な、とにかく不自由なところで逢いました。どう手引きされたのかもわかりません。何もわからず名乗り、ただ手をつなぎました。逃げろとその時に言われたのです。でも手は離さなかった。離せといわれて、互いに離さなかった。この人とは少しだけ違う。でもであるとかないとか、構わないのです。私ごときに引っかかるものは何もないこともわかります。それでも手を離したくなかった。私の欲です』
なんという青々しさだろう。言い切った顔を撫でる涼やかな風は、曲折した道を真っ直ぐに通り抜ける。あの瞬間、生涯を決定づけたことを少年は知らない。
貴人は伏せていた目を勢いをつけて開いた。ばくばくと開いた口からは音がなく、ただ瞬きの数だけ口も開いた。貴人の中に、道徳的で気高い少年の魂が確かな輪郭をもって現れる。忘れていたのだ。心底追い出していたことに驚くも、両腕を掴まれた彼女の方が目を丸くして驚いている。
そうだ、彼がここにいる―――。
「おまえに必要な男だ。逢わずに去るつもりか」
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