327 肉料理:----・------(119)
答えにはなっていない。それは彼女もわかっていることだろう。
誰に対しても純粋な愛を返そうとした女は静かに笑うだけだった。
月より剥落した美貌で男を統べることができれば結果は変わっていただろうか。舞姿に献上される金銀を喜んで受け取り、寵愛に類したさまざまに濡れて、美辞麗句をしっくりとその胸におさめて等価を差し出せば、旬日ならずして一人として立ち上がることもできなくなるだろう。
けれど女はそれをよしとしない。女という格がどこまでいっても女であると弁えて、両手の届く場所をなによりも大事にしていた。水の一滴が長い年節をかけて岩に穴を穿つように、地味で穏やかな、いっそ退屈なほどの静寂を好んだ。そうした無垢な生に何よりも価値を見出す姿は、美しい老木の枝ぶりに庇護されていた。何とかして気を惹こうとする人々の心の葉は容易く落とされるが、代わりに赤々と恋慕の花が咲いた。
彼女の慈愛は偽りなく天成のものである。片や、女を快楽の渦に引き込もうとする男などは水の散った暗所に生えた苔だといえる。身を包む飛沫や澄んだ空気だけを糧に生きればいいものを、岩に腰かけて顔を近づけてくれる彼女を恋しく思い始める。白糸の流水が嫉妬して、水面に挿し入る女の足を何度も撫ぜるが、彼女の心を引き留めることはできない。指先が優艶な趣をもって植物体から伸びた細い蒴に触れる。胞子嚢に被さる雫をうつしとって、寒々と震えた指を大気が包み、すぐに乾かそうと試みる。苔とあろうものが、とんだ勘違いをするなと言っている。
目の前の骸、これこそ苔の成れ果てであると云うのだ。そう思うと、さしもの彼女も迂闊な言葉に悲し気な顔を見せた。そんな事を言うなというのだろう……
――いいえ……貴方にそう言わせてしまう。私の弱さのせいだわ
それは違う。余は愚かだがおまえはそうではない。結論、お前には何の責もない。愛しているからいっているのではない。多くを望まぬ姿を謙遜や我慢と受け取る周囲が、"おまえのためを想い"、勝手に動いた事ですべてが終わった。
――嫉妬が生まれ、誤解、殺戮、蹂躙が起こった……拒みたくなる日々はいつか終わりがくると、そう願っていた……でもいつも私のせいね、いつもそう
それも違う。流れを作り上げたものがいた。扇動し、壊れ合うように仕向けたものがいた。それが誰であるかわかっているだろう。お前を追い詰めた男を。
――…………
答えが返らぬという事は、強情さが数千年経っても変わりがないという示唆でもあった。人を悪し様にいうことのできない口は結ばれたまま、代わりに涙を流すのだ。愛憎は表裏一体である。それはわかる。わかるが、それがなんだというのだろう。罪は罪だ。暴虐を拒絶して、正さなければならない。
――………………
彼女がどう思っているか、根本まで知ることはできなかった。私達はかつて一つであったが、数千年の旅路でまったく別の情感を積み重ねて、別の魂となっている。
父であり母であり、自分以外のたったひとりの特別な女。それが彼女だ。今では子とも思え、友とも思うこともできる。愛おしく、どうしようもないということだけ永久、転じることはない。
――……もうすこしだけ
祈る女の横顔が、殊に貴人には苦しみのなかにいるように思えた。また何かに憐れを見つけ、涙している。自分を殺した男にさえ同情を寄せる。そうせざるを得ない魂こそが憐れであると強く思った。
(……余はお前の憐れから切り離されて、お前の代わりに遠く羽搏くために生みだされた。だというのに、数千年かけてこんな場所まで来て……潮気と葡萄の他に、妙な男を釣りあげた。それが器となってしまうとは思いもよらぬ事だった……おまえを責めることはできない……これは余の罪だ)
貴人は一歩退いた。横顔に潜む気高さを穢すことはできないと思った。じっと鎮魂が届くのを待っていると、周囲の賑わいさえ鬱陶しくなった。静まれ、と呟いて望むままに音を消すと、術に気づいた彼女はゆっくりと首を傾げて面差しだけを持ち上げる。髪の匂いや唇の湿りの甘さが、ほんの少し傾げる首からこぼれて鎖骨に憩うのがみえる。真正面から視線を受けると、どくりと、唾が喉を通った。貴人のなかの男性心が震えを起こし始めていた。
――シルヴェーヌ、私の中に入りたい?
薄衣をまとう女の体は淡く光り、理力が意を伝えあうように微動している。瞬きのたびに俯いて、ふと己を見つめ返した。戻りたいのだろうか、元始の海へ――彼女は問い詰めているのではない。ただ世界の半分を確かめている。同意するように、ゆっくりでいいわと彼女が言った。貴人は言葉に詰まり、ただ是と、言葉らしい言葉を使えずに頷いた。




