326 肉料理:----・------(118)
事を終え、白布の骸から視線を背けると、人ならざる自分を上手く避けて走る若者の背の向こうに、光を見た。根源的な美しさに、もう朝が来たかと思った。
彼女が来ている――我が神にして半身。始まりにして終わりの者が其処にいた。
白鳥の立居のごとく背筋を伸ばして、胎の上に白い手を重ねている。体に張り付く衣に肌色が透けて、その薄い絹、たった一枚に柔い裸が遮断されていた。広間にいた少女の容貌でも、湖沼を望む邸に生きていた時の姿でもない。貴人が目覚めに心を奪われた、世の男が必ず逢着する最初の女が佇んでいた。
彼女はゆっくりと、ものうげな視線を彷徨わせる。首を動かすだけで、彼女の体から膨大な理力がほとばしった。身の周りを行き交う人々に目を向け、眉をひそめては、また別の者、たとえば廊下へ駆けていく焦った背中を目で追っていく。
青い筋のうかがえる腕が動き、乳房のうえを指先で、すす、と擦り上げる。隠れて見えないが、彼女が唯一身に着ける装飾品を撫でているとわかっている。彼女は一言も発しないが、大気の中を漂う光は緊張した空気を帯びていた。眼前に広がるおそろしい光景に悲哀を感じているに違いないのだ。自分より不幸なものがいるということに、耐えきることができず多くのものを手放して与えるような女だ。今もまた揺れる瞳から気持ちが窺い知れる。涙の音を聴く前に今すぐに抱きとめてあげなくては……
貴人の目は眩い化身に張りついて離れない。同時に四肢の感覚が麻痺して動くこともできなかった。彼女の存在に全身を侵されて、頬はほてっていた。
彼女は人の間を歩き始める。誰もその姿を認識することはできず、肩に手が触れても、間近に見つめられても交わることもない。
死人を抱きしめて離さない男の前に立ち、祈りを捧げる。理力光が死の中に入り込み、骸から魂を誘ってふたたび這い出てきた。てのひらに光の塊が乗る。魂は軽々として、頭一つ分の大きさの球体だ。どんな風に生きようと、最後にはこうなる。そこには微塵の暗さも狂暴さもない。肉具を剥いで真っ新になった光に、唇を近づけて彼女は何事か囁いた。桃色の肉に包まれた白い歯と赤い舌が意味を教える。ふるい別れの言葉だった。
(あぁ、なんと懐かしい響きか……)
誰にも所有されることのない魂は、窓々の向こうに立ちのぼっていった。彼女はながいこと光の方を見ていたが、崖をおどろかせる大きな波音を聴いて、悲しげに笑った。すくと立って別の"悲哀"に足を運ぶ。
積み重ねた平穏が、強烈な咎で吹き飛ばされた痕跡を、ひとつずつ確かめていく。
そして最後に、くろがねの棒が突き刺さる龍下の骸の前にやってきた――
彼女は骸に膝をつく前に、貴人の目を見据えた。何かを言わねばならないが、相応しい言葉は見つけられなかった。まだ葬送の途中なのだからと、先を促すように首を振る。顔ごと背けて拒むと、縮まった己の足指を見て、貴人もかすかに笑う。ほとんど吐息のような笑みだ。情けない。彼女の前ではいつもこうだ。渇いた唇を湿らせて充分な時間をかけて前を向く。
啓示的な美しさを湛えた女は白布の骸の前に足を折っていた。額に重ねた指を押し当てて、無言の祈りを捧げる。この中に在った魂は既に去った。残されたのは、一人の女を追い求めて、人の道から足を踏み外した男。その器だ。
どうして祈ることができるのか、理解できない気持ちはある。この男にどれほどの苦痛をかけられ、周辺あらゆる生き物を殺され、涙と孤独を強いられたというのに彼女は白布を光で包んでしまう。
あの男は償いの為に生きるというが、どんなに数え上げても余生で成した善行より、殺した数の方が多い。男の愛し方は省みる出来事が一つや二つあったところで変わりはしないのだ。あの男の器は死んだ。けれどまた別の器に入って、別の生で彼女を追い求める。あやつなりの愛に励むのだ。他の男もそうだ。あの男以外の生き物は、まともに生きているのではない。まだ道を踏み外していないだけなのだ。なにも信じられることではない。彼女以外に信じられるものは無い――
――ほんとうにそうかしら?
そうだ。おまえは誰の前でも究極、女なのだ。美しく、温かな笑みで人を寄せ付け、愛し、愛され、そして狂わせる。あばずれよ。
――あば、? なに? どういう意味なのかしら、きいたことがないわ
知らずともよい。すまぬ、忘れよ。口が勝手まわった。思ってもいないことを言う。使ってみたかった罵りというだけよ
――わかっているわ。逢わずにいるあいだに、とても素敵な名前を得たことも。ずっと見ていたの……
寂しくはないか。
――貴方の目が私の目となってくれるわ




