325 肉料理:----・------(117)
息を吐く――――まだ、生きている証に。
(余はどうして……生きて、おるのだろうな…………わかりきっているというのに、すこし………おかしな気になる)
煌々と輝く照明の真下で、女の美しさと男の小気味よい爽やかさをほしいままにする貴人は微笑もうとしてそうする事ができなかった。
明らかに気疲れしていたし、さも興なさげに鼻を鳴らしても心は少しも晴れなかった。饒舌な口は縫いつけられて、誰それと喋れるような気持ちには到底ならなかった。
長命であることを恨んだことは一度もない。生みだされた瞬間を知ってもなお、その決断に異を唱えることもない。けれど思い悩むことを止める事はできなかった。一体いつまで続けるというのだろう。あとどのくらい逃げ続ければいいのだろう。
―――『お前は誰ぞ、名乗りや』
先程までそばにいた愚か者の魂は気楽げに旅立っていった。
最後までこの身を聖霊であると信じたまま逝った男は、去り際本当の名前を堂々と口にした。温みのある笑顔をみせて待っている姿には、上機嫌に揺れる尻尾が見えるようだった。露骨に取り合わずにいると、男はそれすら嗜好に合ったのだろう気にせずに足元に跪く。かつて股座の下で見せた顔貌以上の恍惚がそこにあり、かえって心が冷める思いがした。
今際の際まで気がたがっておる。そう思った。とやかく言う気はなく黙っていると、手の甲に顔を寄せ、一方的にねぶられる。角度を変えて筋を追う舌が、指の股を挿した。つど注がれる眼差しの意味に、一々想いを馳せることはない。
男を所有し、抱いてやることも抱かれてやることもあった。体を重ねてしとどに漏らすことはあったが、心の形まではろくに合わなかった。名をもらったガオやプラシドとは根本的に違う。彼らの健気で高潔な魂と比べる事も烏滸がましいといえるほど、狡猾で、卑怯で、汚らわしい魂の形をしている。それがこの男だ。好みではない。だのに、看取りにきた。わざわざ。
ここまでの狂いには逢ったためしがない。世に感じる認識すべてが相違する、最早別の生き物かとも思う。が、不思議と食ってみようと思って食った。食われることを承知で体を許した。海藻や茹での類いを好きも嫌いでもなく、日常に食うように、飽くまで食しあった。
確かに人心欠けたところがある。うるさく、何やら憐れなほどに痛みを求める。が、嫌ではなかった。嫌ならば早々に捨てて立ち去っている。しかしそうはしなかった。何故だか、軽蔑が裏返って「友」などと呼んでいるが応急的な名称だとわかっていた。本来、別のものであるのに、それは頑として口にしなかった。男はそれを理解していただろうか。求めていたとは思えない。
逝けという風に目線で促すも、なかなか離れようとしなかった。男は何かを待っているが、その何かを口にしようとしない。期待されている。喜色に満ちた眼差しがちらちらと顔を射す。なんだというのだ――まさか愛とでも言うつもりか。
(余は無なのだ。いつか、消えてなくなる定めよ)
想定とは違う。―――しかし、想定とはあってないようなものだ。ただ友を見送らねばと思った。それだけだ。何故か心底居心地が悪く、ぎり、と歯が軋む。
私が返す瞳に何が浮かんでいたというのだろう。ディアリスは突然立ち上がると、顔を無遠慮に挟みこみ、鼻が触れるほどに顔を寄せた。『あぁ』吐息が入り混じる。感じ入ったまま立ち尽くす男は、その視線で余すところなく愛撫していく。目は次第に濡れて、雫が目尻に溜まった。とりしずめようともしないので、ただ真正面から落涙を眺めることができた。
『私も愛している……』
意味のない事を言って、返事を待たずに両頬を挟む手は離れた。最後の最後で唇も合わせないのかと、どういうわけか、怒りを感じる自分がいた。
仕方なしに、ゆっくりと片手を持ち上げる。まず産毛が触れて、そのあと汗ばんだ熱を感じた。頬の感触が幻影にしては生々しいのは記憶のせいだろう。ただ頬を撫でる行為ひとつ、戯れにこうしてやると男は大層喜んだのだ。今もまた、掌に唇を寄せたり、頬を擦ったり好きに味わっている。
「私を所有し続けてくれ」と言う顔だった。嫌というほど伝わる。最期まで吐き気がするほど強欲なのだ。妻子を死に追いやったことも、人を欺き、人を抱き、仲謀の限りを尽くして都市を牛耳っていたことも、いちいち下らんことを申して誘い、泣きながら人を抱く癖も、何一つ謝罪せず、過ぎたことは過ぎたまま放置する。だから最後も悲惨なのだ。己以外を好きに蹴散らして、欲の限りを押しつけて、汚くねばったからこそ、自分の器ではない体で死んでいく。……しかしこの男は、わけがわからんとも言わなかった。自分の魂が別の体に入っていることに驚くも、龍下ごときの器では腹を切って死ぬ方がいいと言い切った。それは豪胆といえるだろう。既にはらわた覗くほどに開腹されて死んでいるというのに冗談を言うのだから性質も悪い。
『まこと……愚かよの』
多少血潮がざわめき、手足を押しつけて抱きしめる。背は向こうの方が大きい。不格好で、重ね衣は抱き心地が良くなかろうが、ディアリスの太い腕が背中にまわった。
(…………汚く生きた。それもまた生である。途方もない男がひとり居た、それだけは覚えておいてやろう……のう、リリィ……この記憶は余のものなのだから、責めてはくれるな……)
最後の盛りにしては静かな抱擁が終わる。とうとう貴人はひとりになった。




